カテゴリー「子どもとの暮らしの中で」の68件の記事

232.sense of wonderと理解力

昔から手放せないこの本、 これについては何度かこのブログでも書いてきたけれど…

2013年の投稿はこちら

子どもたちと山を歩いて、 庭で鶏を眺めて、 そして、

生徒からの質問の、数学の解説を書いている今、

勉強も、みんな、同じ、センスオブワンダーだよねえ…とあらためて思うのです

 

あれ、なんでだろ、って思うこと

説明を聞いて、読んで、ああ、そうか!って思うこと

ただ言われた通りに真似て解くだけじゃなく、

自分の頭の中で、納得するまで考えること

それをしていない場合、 本当に、理解するのは難しいと思うのです

 

いいからこのように解きなさい、と手本を見せられ、 真似て正解してマルをもらう

テストの前にテストに似た問題を教わり、 正解してマルをもらう

そんなことの繰り返しで、すっかりセンスオブワンダーを失った子どもたちは、

次も手本を見せてもらうのをただ待っている

しかも、学ぶことに興味はない

だって、ワンダーがないのだもの

なんでだろう、ってたっぷり思う暇がないんだもの

試行錯誤する暇も

 

学校の授業では、先生も工夫してくださっていて、

新しい単元に入った時にはあれこれと子どもたちと意見交換してくれる先生もいるようです

どのように考えたらよいか、教科書の例以外でも、何か思いつくことがあるかどうか、

問われることもあるようです

 

それでも現場の先生に聞くと、

前のめりで考える子と、そうでない子とくっきり分かれていて、

先生が話し始めると反射のようにあさっての方向を向く子や、

意識が飛んで果てしなくぼーっとする子が増えている…と

 

それは私も感じていて、

四半世紀この仕事をしていると、季節ごとに教室の子どもたちに話す定番の話なんかがあって、

毎年、楽しみにそんな話を出してみるのですが、

「あ、雑談が始まった」とばかりに意識を飛ばし、手悪さが始まり、

それでも聞いているならまだよいのですが、

全く最初から関心がない、という明らかな態度の子が、 年々増えているのは事実です

守ってもらいたい約束事の話などをしている時も同様です

ただ、「話を聞いて、考える」という、それだけのことが、できないような

逆に、私の目を見て、私の手の動きを見て、表情豊かに反応し、一生懸命理解しようとしている子も

 

こんな小さな教室でそうなのだから、学校の教室や如何に…

 

誰が何を話そうが、心を動かそうとしない

感じ取ろうとしない

センセーショナルな演出を加えれば、ともすると子どもたちの関心を一気に集めることが

できるのかもしれません

だから、実験教室とか、動画学習とか、そんなのが流行するのでしょう

でも、どうするのでしょう

世の中常に、サービス満点の、読み手を揺さぶるようなアクティブな刺激ばかりではありません

ただの文章だったり、 ただの書類だったり、 ただの計算式だったり、 ただの講話だったり、

何を読み取ればよいのか、誰も教えてくれない状態で、 読み取らなければならないのです

テレビや動画の見過ぎで、人の話なんか、刺激がなさすぎるのでしょう

 

 

木村さんの家から学校までの道のりは3.6㎞、学校から駅までの道のりは3.36㎞です。ある日、木村さんは7時15分に家を出て7時35分に学校につきました。その後15時34分に学校を出て15時50分に駅に着きました。木村さんは、家から学校までと学校から家までそれぞれ分速何mで移動しましたか。

(ちびむすドリルより)

 

これはごく一般的な算数の文章問題です

 

どんぐり問題をやっていると、こんな親切な文章問題はとっても簡単な問題に感じると思います

でも、このような文章問題を「難しい」と感じるとしたら、

それは、 やはり、読み取れないから

読み取ろうとしないから

いいえ、本人は一生懸命読み取ろうと努力しても、

脳があきらめてしまう

そんな子も何人も見てきました

 

ただ、その場面を思い浮かべればいい

往路と復路で距離が違うこと、 そして往路でかかった時間、復路でかかった時間も違うこと、

そして、問われているのは分速何m、という単位であること

ひとつひとつ読み取っていき、整理して計算していけば、 全く難しい問題ではありません

でも、ひとの話を最初から「意識を飛ばして」聞く耳を持たない脳は、

このような問題を読んでも読み取ろうとしてくれません

その子自身がいくら考えようとしていたとしても、 脳があきらめる方がたぶん、早いのです

「わかんない」という言葉が反射的に出てきて、

もう、その言葉が出てきたら、本当に、脳にはブレーキがかかります

 

無理矢理似たような問題を何問も解かせ、説明して、はい、同じように解いて、と言えば、

解ける子もいるでしょう

でも、ずっと付き添って、そのように導くことはできないし、

第一、根本解決にはなりません

結局、 テストの時はひとり、 入試の時はひとりなのですから

 

ただ、感覚が育っていないために脳が思考停止するしかない子どもを、

大抵の大人は責め立てます

「努力が足りない」

「やればできる」

そうじゃないんです

もう、そのような脳に育ってしまった

育ててしまった

だから、本人の努力不足とは違うんです

中学生になって、急に、成績が数値化されて、

突然「子どものせいにする」親たちが急増しますが、

声を大にして、言いたい

悪いのは、子どもじゃない!!

(あ、だから、子どもを責めないで。成績に、一喜一憂しないでね。

ありのままのその子を、愛してね、ってことです)

 

難しいことではないんです

これから子育てをする人なら簡単なこと

もう子育てが始まっている人も、今日から意識すればよいこと

 

センスオブワンダーを育てよう

 

大自然の中で全部を味わって歩こう

大騒ぎするんじゃなく、自然を妨害せず、ただ、お邪魔しまーす、という気持ちを持って

 

それが無理なら

近所を散歩しよう

 

それも無理なら

家で生き物を育てよう

 

それが無理なら

小さな植木鉢に、種を蒔こう

ベランダでいいから

窓際でいいから

毎日、水をあげたり、日に当てたりして、世話を一緒にしよう

それならできるはず

 

動画を見せてもダメなんです

バーチャルペットでもダメなんです

自然が教えてくれるのは、 温度、感触、におい、そして、体を震わせるほどの、心の動き

キャンプが流行していて、

自然体験も流行していて、

週末には群馬の大自然に向かう道路が都会の車で渋滞するほど

でも、車の中ではビデオを見せている

親は大自然のベンチに座ってスマホを操作している

なんならキャンプ場でも子どもたちはゲームをしている

自然が気持ちいいから、と排気ガスをまき散らし、ゴミを捨てながら

 

そんなことをするくらいなら、家で植木鉢に種を蒔けばいい

 

すでに、発芽くらいでは心が動かなくなってしまっている大人の方は、

いま、その状態で子育てするのはとっても危険だと自覚したほうがいいです

 

不安だからってあれこれ取り入れなくていい

 

ただ、子どもと一緒に味わうだけで、子どもは賢く心豊かに育ちます

ただ風のにおいを、

ただ葉の動きを、雲の流れを、

川のせせらぎを、海の波打ち際を、山道のたくさんの植物や生物を、

感じ取るだけ

 

特別な準備など、要りません

ただそこへ一緒に行き、ゆっくり過ごすだけ

子どもの目に映るものを、一緒に自分の目にも映すだけ

子どもが何か言うでしょう

ただそれを、受けとめるだけ

イベントじゃなくていい

むしろイベントじゃないほうがいい

(あ、DSSイベントは基本、何にもしません

ただ、大自然に遊んでもらいます

自然の中で大騒ぎするのが、あまり好きではない主催者でして

ただ、現地の動植物を大切に扱ってほしいな、という願いだけは伝えて…)

 

もし学校の授業を素直に聞き、理解しようと当たり前に努力し、

文章を読んで一生懸命考えるような子に育てたければ

 

人の話を聞き、文を読み理解しようとする、その感覚を育てたければ

 

道具を買いそろえてキャンプや登山をしなくてもいい

ただ山の近くに行って

ただ海の近くに行って

ただ風に吹かれてみて

ただしゃがんで砂や草を見てみて

子どもと一緒に

 

それがセンスオブワンダー

答えなんか探さなくていいんです

 

大人がそのsenseを磨くことで、子どもは今よりもっと、

幸せになります

だって、子どもだって自然の一部

どんな目をしてる

どんな声をしてる

今日、あなたに何を伝えたがっている?


《2018年 6月13日投稿》

230.大人に、従わなければならない子どもたち

連日、ワイドショーを賑わしている「指導者」と「選手」の問題は、

私たち、子どもに関わる全ての大人が真剣に考えなくてはならない課題を孕んでいます

 

それは、指導者、コーチ、教師に限らず、

親たちも同様です

 

初めて、この問題を知った時、

加害選手のした事実は重く受けとめなくてはならないひどい行為ではあっても、

それがもしかしたら指導者側からの指示に従っただけ、ということに、

それほど驚かなかった、というか、

基本的に、逆らえるわけないじゃない。と冷静に感じたのでした

 

それは、自分がかつて身を置いていた「体育会系」のいくつかの組織を思い出しても、

「こうしろ」と言われて、「なぜですか?」「本当にしなくちゃダメですか?」なんて反論は

ありえなかった経験もあるけれど、

(…まあそれが、反則行為や犯罪行為である場合、やはり、受け入れてはいけないのだけれど…)

大学生じゃなくても、スポーツじゃなくても、

私たちの身近にいる子どもたちの多くは、そんな風な、「逆らえない命令」に、

日常的に従っているという現実があるからです

 

たとえば「ランドセル重い問題」

昨年度、どんぐり学舎でも、塾生さんや、塾生さんの周囲の子たちに協力をお願いして、

1週間のうち数日間、ランドセルの重さを量ってもらい、体重との比率を計算して集計しました

(その結果はまた別の時に公表するとして…結論から言うと、「重すぎる」)

その後、国内外から情報が集まったり、報道されたりして、

つい数日前、朝日新聞で特集がありました

記事を隅から隅まで読みましたが、一番書かれていなければならない重要なことが

全く書かれておらず、驚きました

 

某海外の国では教材は学校のものだから、私物として持ち帰らない、

だから、リュックの中身はランチボックスだけ、とか、

また別の海外の国では、重すぎるので車輪つきのキャリーケースが必須だとか、

日本でも、重さ対策のために、教材を自宅用に別途揃えて、

持ち帰らなくても済むようにしているとか、

ランドセルに入れるA4ファイルの端を1センチ切るだけで、標準ランドセルに収まるから、

少しでも重くなってしまう大きめのランドセルを買う必要はない、とか…

 

いやいや、そんなことじゃなくて、当初から私が問題だと思っているのは、

「教材を持ち帰るかどうかの選択肢がない」ということなのです

昔風に言うと、「置き勉」は禁止されている学校がほとんどである、ということです

つまり、

子どもたちは、自分で「必要か不要か」を判断してランドセルの中身を厳選することはできず、

全ての教材を持ち帰り、全ての教材を持っていかなくてはならないのです

たとえば、「明日も算数があるけれど、宿題でこの本は使わないから今日は置いていける」などと、

自分で決めることはできません

 

もちろん、全国、全ての学校ではなく、実際に全ての学校に調査したわけではないので、

割合もわかりませんが、

私の周囲、つまり、わが子や、塾生の周囲では、こんな現状です

 

ついでに言うと、「忘れ物」に関しても、かなり厳しく指導されています

全部持ち帰り、翌日の準備も全部持っていくわけですが、

時間割表は昔のように科目だけ書いてある決まったものではなく、

毎週配布されるプリントで、全ての持ち物などまで明記されていますが、

これもまた、「何が必要か」子どもたちは判断することもなく、

書いてある物を忘れないように持っていくのです

忘れたら、厳しく注意を受けるのと、「忘れたから友達に借りに行こう」

なんていうことは許されないので、

泣きながら荷物を何度も確認する子がいる、という話も方々から聞いています

 

たとえば「中学校の定期テスト問題」

定期テストが近付くと、「テスト範囲表」というプリントが配布されます

科目ごとに、テスト範囲と、提出すべき問題集の範囲などが明記されていますが、

それだけではありません

目標点数、テスト前2週間ほどの勉強スケジュールと記録、

さらには「勉強の仕方」「ワークの使い方」などが書かれていて、

中には、その通りしなければならない、と

決められている学校もあります

勉強の方法さえ子どもたちが自分で考え、決める権利はありません

ほとんどの中学生は、日々、部活動に時間を費やし、宿題をこなし、

テスト前には言われたところまでの問題集を埋めて提出、

自分で自分の弱点を知り、対策を立てる暇などありません

 

たとえば…まだまだ…

・給食は「三角食べ」を強要され、ご飯が口に残っている状態で牛乳を飲まされる

・漢字はもう覚えているのに何度も漢字練習の宿題が出される

・授業でよくわからなかったのに、宿題で計算ドリルが出され、やっていけないとペナルティ

・給食、掃除の時間は無言がルール

・特別教室、体育館や校庭への移動は無言で列を乱さず

・算数の筆算には定規を使わないと減点

・算数の繰り上がり、くり下がりなど、教師によって書き方に特徴があり、

 それに従わないと叱られる

 

小学生でこのような環境が「あたりまえ」だと思って中学校に入り…

 

・先生の授業は絶対。たとえ間違っていても、ほとんどの生徒は指摘できない

  (目にあまるので、一度指摘したことがあります。

  でも、別のベテランの自信満々教師のとある授業に関しては、

  指摘しきれないほどのミスが多発。

  質問するように言っても、生徒たちは「できるわけない」と口々に。)

 

・外部講師を招いての講演などに行くと、保護者の後に生徒が入場してくるのですが、

 入場直後から一切私語はなし

 始まるまで10分以上、誰も何も喋らず、身動きもほとんどしません

 「気持ち悪いなあ…」と思っていると、講演が始まり、

「こんなのおかしい」と冒頭から講師の方が指摘

 「中学生ならもっと自由に過ごして、会が始まったら耳を傾ける、というくらいでいい。

 聞きたいな、っていう話なら自然と静かになる。先生達、どう思いますか?」

 わたしも一緒になって、生徒の周囲や後方を見渡すと、なんと、先生はほとんどいませんでした

 つまり、保護者の希望者と生徒全員に聞かせる外部講師の講演会を、

 先生達は聞かないのです

 

・とにかく怒鳴る、威圧する、私が目撃した場面だけでも、生徒に有無を言わせず、

 とにかく大の大人が大声で、怒鳴り散らします 

 中には、生徒たちの出身小学校の名前を出して馬鹿にして、罵倒する教師もいます

 少しは反抗的な態度を表す子もいますが、ほとんどの生徒は殻に閉じこもります

 そして、「いい子」を演じます

 それしか、穏やかな中学校生活を送る術はないから

 子どもたちの、生存本能でしょう

 

 

小学校から始まっている「大人の命令は絶対だ」という生活の中で、

子どもたちは、学んでいきます

まず、自分で工夫して考えることはしなくなります

長女が中学校に入学した時、

担任の先生に、

「指示に従うのではなく、自分で勉強することを見つけて、

自主的に勉強することが望ましい」と言われ、

「でも、先生、小学校では自主的に勉強するのではなく、

宿題を出されて、それをやらなければならないんですよ」と言いました

※長女は宿題免除でしたが、一般論として

中学の先生の多くは、漢字練習や計算ドリルをたくさんこなせば勉強ができるようになる、

なんて思っていませんが、小学校の宿題の実態はよく知らない方が多いようです

「あれだけがんじがらめだった子たちが、中学生になって急に自主的に勉強し出すでしょうか」と

その話を続けました

「だから、わからなくなって、1年生の最初から塾を探すのでは。

部活と、塾と、ゲームで、結局、一番大事な学校の授業中に眠くて、疲れていて、

集中できないという事態になっているのでは。」と

 

その後、中学校もかなり「がんじがらめ」であることを知ることになるのですが…

 

卒業式、

水を打ったように静まりかえった体育館は、「あの」講演会の時と同じでした

彼らの卒業式なのに、先生の「礼!!」という怖い声が響き渡り、

その声に反射するかのようなスピーディな反応で、

生徒たちは同じ角度で頭を深々と下げていました

 

ひととおりの儀式が終わり、親たちだけのPTA退会式?のようなものにうつった時、

「生徒たちが立派でした」と先生は言っていたけれど、

私の頭の中では尾崎豊の『卒業』が鳴り響き、ガラスを割る音が聞こえてくるようでした

誰も、ガラスを割る子なんていない、

そんな気持ちさえとっくにおさえつけられている子どもたちです

でも、消えているわけではない、みんな、心の奥に持っているのです

 

だから、スマホを手放さないんじゃないかな

だから、SNSでつながりたいんじゃないかな

 

20歳になっても、命令に従って罪を犯した彼のいた世界は、

この延長なんだろうな、と思ったのでした

 

子どもは、悪くない

大人が、この世界を作っているのですから

 

そんなつもりはない?先生は、親は、いつも子どものためを思って…

そこに乖離はないですか?

大人の勝手な都合はないですか?

 

話を聞いてあげるのは、大人のほう

誤解があるなら解いてあげるのは、大人のほうです

 

だって、私たちは「おとな」なんだから

《2018年 5月31日投稿》

226.子どもの笑顔を守るために大人ができること

どんぐり学舎は、どんぐり倶楽部の糸山泰造先生の作品である、

「どんぐり倶楽部良質の算数文章問題」を教材として、

子どもたちが楽しく、親御さんたちには賢く、

健全な思考力と、親子関係を大切に育てていくために営んでいます

 

ひとことでは説明できない、いろいろな要素が…

営む私から伝えたいことはたくさんあるのですが、

ただの学習塾とは違っていて、

お子さんはこの問題集を通して、本物の思考力を身につけることができるということは

保証されているのですが、

親御さんには、ただ学習塾に入れてさえおけばいい、というだけの気持ちでは、

なかなか効果的に活用することはできない、という、考えてみたらちょっと面倒な教室ですね

 

わたし自身、わが子を育てる親として、日々、勉強を続けてきました

ともすると、世の中の(健全に子どもの心身を育てるにはどうかと思う)流れに乗せられて、

思わぬ事態に親子で巻き込まれかねない昨今、

親自身が学び続けることはどうしても必要になってきています

 

昔は、親以外にも子どもに関わる大人はたくさんいて、

たぶん、大人が、子どもの教育に今ほど関心を持たなくても、

それぞれが適当に育ちあがったのではないかと思うのですが、

今は、

生まれてすぐに教育産業からDMが送られてくる時代、それどころか、

産婦人科に通っている段階から、業界はお腹の中の赤ん坊を見つけて狙っているのですから

 

なんにも知らずに「今やらなければ手遅れになりますよ」とDMに書いてあることを信じ、

周囲も取り組んでいるから、と多くの方が例の幼児向け通信教材を買っていましたね

小学校に入れば習い事を増やさなければ、とそちらへのアンテナを伸ばし、

評判がいい、親の負担がない、と聞けば体験レッスンへ

スポーツでも、芸術でも、勉強系でも、なにかやらせなくては…と焦らされるのは、

利用者を集めたいそれぞれの組織の、弛まぬ努力の成果でしょうか

 

残念ながら、1mmもそういった営業活動に心を動かされたことのない私は、

友人たちと話していると客観的に自分を見つめ直すのですが、

それはどんぐり指導者だからとか、塾の内情を知っているから、とかではなくて、

自分で勉強して、調べて、納得した上で生活をしている、という、

ただそれだけのことなのでした

 

だって、

何度も言いますが、私は、17歳の高校生の時、すでに、

いつか子どもを授かったら、大切な時期はテレビを見せず、完全布おむつで育てるぞ!と

決めていたのです

それぞれに根拠はありますが、17歳なりに、子どもにとって大切なことを確信していたのです

 

いま、

新学期で不安を抱えたお子さんの背景に、

新学期で不安を抱えた親御さんたちの心情が見えます

 

子どもが不安なのは、親が不安だからだということを、思い出してください

 

周囲の情報にドキドキしたり、子どもの言動にソワソワしたり、

繊細な今時の親御さんたちの不安は、間接的に伝わってはきますが、

できれば、もっともっと、ご自分を鍛えて、強靱な心身を持ち合わせる強い親になってください

 

褒めて育てよう、自己肯定感を育むために、子どもの全てを認めよう

そんな子育ての風潮がありますが、

それは、子どもが何をしても、何を言っても優しく受け入れる、という意味ではありません

子どもは、親を手本として成長していきます

親が何を見て何と言うか、どんな態度をとるか、子どもは手本としています

親が何を選択するかもよく見ています

 

子どもに指図され、親が選択を誤るようなことだけは、絶対にしないでください

子どもは、瞬間、瞬間で生きています

簡単に言うと、後先考えていません

考えているようで、わかっていません

今の自分を守るため、本能的な行動をします

それが子どもの特徴であり、魅力でもあるのですが

 

何をしても優しく認め、受け入れることはその場ではとても寛容ないい親のように見えますが、

私は、「この場でそれを教えないのは子どもにとって不幸だなあ…」と感じることが多々あります

 

本当に寛容な親になるためには、

親自身が本当に大きな器でなければならないのです

誰しもが、「寛容な親」に簡単になれるわけではありません

でも、私たちは、たぶん、そこを目指しているはずです

子どもが自分の力で生きていく、幸福に生きていく、そのための、子ども時代を守っている

生き抜くための思考力…昔なら放っておいても身についたはずの…

健全な親子関係…昔なら大人が関心を寄せすぎないことで普通に成立していたはずの…

こんな時代だから、わたしたちは、やっぱり、世の中の流れに身を任せてばかりはいられないのです

 

ずっと、ずーっと、こんなことを訴えている私です

だからって、「強靱で、寛容な親になれません…」と弱音を吐く親御さんを責めたり、

叱ったりしません

だから、一緒にがんばりましょう、って言っているのです

ひとり、ひとりの保護者様がそれぞれに乗り越えるべき壁を乗り越えてきています

ここには仲間がいます

子どもたちにも、親御さんたちにも

 

あきらめるのは、簡単ですね

今の時代、なにかを諦めても、次から次へとそれを補い、埋めるだけのアイテムが揃っています

でも、子どもの教育は、キッチン用品や収納用品を買いそろえるのとは違います

全体を見渡していると、

ああ、もう、本当に、子どもたちのことをもっと放っておいてくれさえすれば…!!!

という極論に至るのですが

 

実は細部に至るまで、

私は教室や教材にたましいを込めて制作しています

どんぐり問題は糸山先生の作品ですが、

それをどのように扱うか、ということ、

そして「塗り漢字学習」などその他の小学生教材、

中学生の教材はほぼ自作で、中学生が高校入試、その先の人生に向かって、

自分で身につけなければならない力のために、長い年月をかけて、

こうして授業時間以外の時間をかけて、

作っては改訂し、改訂してはまた新規作成し…と繰り返してきたものです

 

子どもたちが手にとるもの、目にするものに、こだわっているのです

 

今年度から初登場したのは、

新しいスタンプさんたち

これは自作ではなく、小島印房分室さんの作品です

これは合格印

どんぐり問題をクリアしたら押します

小島印房分室の小島さんがデザインしてくれました

 

これはお宝印

問題番号が書き込めるように作っていただきました

問題にも日付がはいるし、クロッキー帳にも問題番号と日付が入ります

子どもたちの「自分ボックス」内にお宝ケースが入っていて、お宝問題はその中へ

 

これは授業料の受領印です

 

インターネットで偶然見つけた小島さんのお店は、

名古屋にあるそうですが、

メールで何度かやりとりさせてもらい、

小島さんご自身がどんぐりにとても興味を持ってくださって、

こんな小さな私の教室のためにデザインしてくれました

 

これには、子どもたちも大喜びで、

お宝スタンプにも興味津々

 

やっぱり子どもたちには笑っていてほしい

なんの心配もせず、ただ、ただ、この瞬間を楽しんでほしいな

 

…でも、そのためには

大人の努力が必須なんだわ…と我に返るのでした

《2018年 5月2日投稿》

217.お店が、ない。

我が家から、子どもが、自力で、

買い物に行けるとしたらコンビニが1㎞以内に数軒ありますが、

低学年が歩いて行くには遠いかな…という距離です

しかも、コンビニ

なんでもあるけれど、コンビニは、コンビニ

 

文房具や、駄菓子、そして、店の人との交流は豊かではありません

忙しい人たちのために、便利に、と存在するコンビニ

子どもたちの暮らしの中に、必須ではないはずでした

 

私は新興住宅地で育ったので、

記憶にあるだけでも、子どもの徒歩圏内に大きなスーパーマーケットが5店舗

(生協、とりせん、マツセー(現フレッセイ)、ヤナイ、アローワン)

大きな電器屋さんが2店舗

(いせや電器(現ベイシア電器)、コジマ電器)

商店街には薬屋さん、本屋さん、靴屋さん、自転車屋さん、ケーキ屋さん、

家から商店街に歩いていく手前の角には交番

商店街と反対方向に歩いていくと、お肉屋さん、八百屋さん、そしてまた自転車屋さん、

学校の前には駄菓子屋さん、(つくい)

最初は1軒、反対側の門にもう一軒(ピーターパン)、

「ファンシーショップ」なる店が最も重要で、

毎日小学生女子が通ったのは「ファンシーショップキムラ」

それから、他にも数軒、たぶん、各町内にあったのですね

それはもう、行けば必ず誰かがいました

お店のおばさんともみんな顔見知り

店内にいた看板犬たちも、みんなで可愛がっていました

大通りには、5階建てくらいのビル(もっと低かった?)のおもちゃ屋(ギャムズ)

そこは、1階がファンシーショップで、女子はせいぜい2階くらいまで

もっと上にあがると、モデルガンとか、ラジコンとか、テレビゲームとか…

あまり興味のない世界が広がっていて、男子はもっぱら上にあがっていました

反対側のバス通りには文房具屋さん(クオレ 現存します)

そのバス通りには美容室が数軒

中でも私が行っていたお店(髪風船 現存します)は、

いつ行っても先に誰かしら知り合いがいて、

待合いの椅子で小学生女子が並んで『女性自身』とか読んでいました

他にもたくさん、歩いていける範囲にいろんなお店がありました

そうだ、手芸専門店もありました

毛糸や、フェルトを買いに行きました

記憶の奥に沈んでいるお店もあります、きっと…

そして、大きな公園がひとつ(中居公園)

ちゅうくらいの公園がたくさん(道林公園・つばき公園その他…)

 

幼稚園の頃はきっと、親と一緒に町を歩いていたのでしょうけれど、

小学生になったら子どもだけでもちろん遊んでいましたから、

特に約束もしなくても、公園や小学校の校庭に行けば誰かいたし、

小銭を握って文房具を買いに行けばお店に誰かいて、

そのまま遊ぼう、ってなることも日常

髪を切る時は、少しまとまったお金を親からもらって、自転車でのりつけて、

高学年になって、たまに「まち」(駅周辺の市街地のこと)に行く時には、

バス代と少しのお小遣いを持って家の近くのバス停でバスを待ちました

 

こんな話をすると、隣の農村(憧れと敬意を持ってあえてこう呼びます)で育った夫は

「そんな環境、特殊だよ」と言うのですが、

確かに、当時、群馬県で最も児童数が多かった私の小学校を考えると、

ほとんどの世帯に同世代の子どもがいて、もちろんその家族がいて、

そりゃ、スーパーマーケットは5軒あってしかり、

スーパーがあるのに肉屋や八百屋がいくつもあってしかり、

駄菓子屋が何軒もあってしかり、

小さな自転車屋さんだって、のんびり商売していても生活が成り立ったのでしょう

 

でも、今ではその5軒のスーパーマーケットで、現存するお店はありません

まだまだ現存するお店もあるけれど、ほとんどのお店はいつのまにかなくなってしまいました

 

これは、私の町以外でも、きっと同じ事なのでしょう

 

我が家から、わが子が歩いていけるところにお店はありません

文房具や、お友だちの誕生日プレゼントの小物や、駄菓子さえも、

本も

「りぼん」とか「なかよし」とか、今のJSは読まないのかな

ファンシーショップでスタンプをあつめることもできません

それどころか、自転車通学の中学生の長女にとって、

自力で乗り付けられるところに自転車屋さんがないのが、

親としても大変困っていることです

重い荷物を背負って毎日乗っているので、パンクもします

中学校は「自転車屋さんで点検をしてもらうように」とかいう通達を出しますが、

販売店まで自転車で行くのは困難で、

仕方なく車に乗せていきます

パンク修理は夫が随分得意になってきました

それでも、放課後に、「明日どうしよう」という事態が多々あり、

「お母さんが子どもの頃は、

自分で自転車屋さんまで転がしていって直してもらえたのに…」と

嘆いてしまうのでした

 

仕方ないんだろうなあ…

お店は、ボランティアではやっていけないもの

ギリギリまで、きっと、町の人たちのために頑張ってくれて、

でも、私たちが大人になる頃には、ほとんどのお店が消えている…という…

団塊ジュニアのせいで、ふくらんだ町は、しゅるしゅるとしぼんで…

ニーズは郊外の大型店へ

かつてあったはずの「よろずや」的な商店も

なくなってしまい

コンビニだけが、頼りになってきました

 

子どもだけで、勝手に、買い物に行ったなあ…と、

思い出すと、今のわが子たちの経験の少なさを哀れに思います

最寄りのスーパーは無人レジに

100均はいくつ買ったらいくらになるか、容易に概算できます

コンビニも、無言で買い物できるし…

文房具屋さんや、本屋さんで、

自分だけで行って物色してなかなか決められないことも、

親と行くと気を遣ったり、せかされたりで経験できないんですね

駄菓子屋さんも日常生活には存在しないし、

理想的なお店はなかなかなくて、

大きなモール内に昭和感を醸し出す演出がされた駄菓子屋があり、

そこへ2,3度、放ったことはあったけれど…

ちがう、ちがう、そんなことを経験させたかったわけじゃなくて…

近所の人がみんな顔見知りだってこと、

お店の人が自分をわかっていてくれるってこと、

子どもだらけで、名前こそ覚えてもらえなくても、

ちゃんと人と人との応対が当たり前だったこと

 

だから、私が長年通う美容室にわが子たちもお世話になっており、

小学校高学年からは店先で子どもを車から降ろし、

自分で美容師さんと話すようにしてきました

美容師さんも私と娘たちを知ってくれているから、その信頼関係もあるのですが

 

スーパーで買い物をする時も、かならず

お願いします、ありがとうございます、と私は言ってきました

黙って商品を突き出したり、お釣りを受け取ったりはしませんでした

工事現場の赤い棒のおじさんにも頭を下げてしまうし、

スキー場のリフトの係の人にも「おねがいしまーす」って必ず言ってしまう私ですが…

 

それを見続けてきた娘たちが、どうしていくのかはわかりませんが…

 

いつかどんぐり学舎の建物が建てられる時がきたら、

昼間は子どもたちのための文房具と駄菓子屋さんを開きたいな

駄菓子屋さんのお菓子は自分で作っちゃおうかな

日替わりで、今日のおやつはこれだよって、限定にしちゃおうかな

ごめんなさいよ、カードや電子マネーはつかえません

小銭握っておいで

放課後、おやつを食べにおいで

あ、パンクを直せるおじさんも常駐していますよ

夢はふくらみます

 

ないから、ダメだから、って悲観しない

でも、自分が嬉しかった経験や、自分を豊かにしてくれたかもしれない経験は、

子どもたちにもちょっとでいいから、浴びせたいな

農村で育った夫の、自然体験も我が家の宝物です

《2018年 2月9日投稿》

214.今日は「1,2,3」だね

インフルエンザが大流行していて、

欠席者が目立つどんぐり学舎です

さらに、積雪のため車が出せない…という理由での欠席の連絡も

安全第一

気をつけてくださいね

 

昨日は「1月23日」でした

お休みの子ばかりだった火曜日の授業のはじまりに、

日付を書くボードに書いて気づいたわたし

「あ、1.2.3だー」

独り言です

「そうなんだよー」

と1年男子Rくん

「ほんとだあ」

と4年男子Dくん

「1,2,3,4はないのかなあ…」

また私の独り言です

「えーっ…そりゃ無理でしょ、234日になっちゃうよ!」

1年男子Rくん即答

「待って待って、12月3日も1.2.3だよね…」

「それでもダメだよ、34日なんてないもん」

「12月34日かあ…ないかあ…」

「1,2,3,4はないのかなあ…」

3人でしばし黙って思考…

 

Rくんの口から「にひゃくさんじゅうよん」なんて大きな数字を聞いたのは新鮮でした

どんぐり問題で、大きな数字が出てくると明らかにめんどくさそうな顔をするRくん

それでも、会話の端々には数感覚の正常さがかいま見えるので、

ただただ、「問題」として取り組むと頭が止まる…というような、状態なのかなあ…と

観察していました

 

この日彼が選んだのは「1MX65 筋肉豆腐」

0MXはほとんど終わってしまって、1MXから選んでいる最近、

なかなか解けなくて悩むことも多いので、今回もどうかな~と楽しみに

 

読み聞かせ方式なので、

私が読んだところまで絵にします

 

●朝早く目覚めたハム次郎は、どういうわけか、突然、もっと筋肉を付けようと思い、

どうしたら筋肉が付くのかを色々と調べました。

 

絵が描けると「はいっ」ていうR君

 

クロッキー帳をのぞくと、ねずみのような小さな生き物が、手に何か持っています

「これななんだぁ?」とあとで聞くと、

「ケータイ。」

笑…

これね、おもしろいですよね、「色々と調べました」っていう部分を絵にするとね、

私の今までの経験では、

第1位 パソコンに向かってカタカタ調べているハム次郎の図

第2位 大きな百科事典のような本を開いて調べているハム次郎の図

で、

最近増えてきたのが

第3位 手に携帯(スマートフォン)を持って調べているハム次郎の図

 

時代を反映するんでしょうか

自分ではパソコンや携帯で調べることはない(はずの)低学年の子ですから、

「身近な大人が調べものをするときにどうやっているか」というシーンが思い出されるんですね

興味深いことです

 

問題はつづきます

●その結果、筋肉豆腐の半分が蛋白質で、

 

「はいっ」

 

●その蛋白質の半分が筋肉になることをつきとめました。

 

「はいっ」

 

「たんぱくしつ」という、耳慣れない言葉に、「なんだって?」という反応があり、

手が止まったので、「豆腐の中に入っている栄養のことらしいよ」と助言

「ああ、」と描き続けました

 

●では、100gの筋肉を付けるには筋肉豆腐を何グラム食べるとよいでしょう。

 

頭の中で数える特徴があるので、「全部書くのだよ」と前回アドバイスしたばかりでした

真四角に書いた豆腐の半分を赤く塗って、「これが蛋白質」と

それから、それをさらに半分にして「これが筋肉」と

そして、100グラム

と書き込みました

 

その絵を見て「400じゃん」とつぶやいたR君

 

答えが出たなあ…と思ってしれ~っと待っていると

なにやら一生懸命描き出しました

小さな○を、たくさんたくさん…

途中、手首を振ったり、「ふうー!」と言ったりしています

描き終えて、持ってくると、

「説明を描いていたんだよ」と

400個の○を描いたようでした

 

ただ、筋肉豆腐の絵にも「100グラム」が4つ描かれています

きっと、「100グラム」って言葉を書き込んだのではダメなんだ、と自分で判断したのですね

 

おしゃべりの中で、数感覚があることがわかっているので、

あとは問題を解く時に、どのように駆使するか、というところなんだと思っています

それでも、子どもなりの工夫や、解法は限りなくあり、

ただただ、圧倒されます

 

ものすごくよく描けた絵図だったので、あとから小さくメモ書きを入れたのですが

じっとわたしの手元を見て、

「ねえ、ねえ、そんな風に書いて、手が痛くならない?もう、手が痛くって痛くって!」

と…(爆笑)

400粒描いたんだもんね、手が痛くもなるよね

 

子どものすることって、なんて非効率!なんて遠回り!

それでも、全部意味があって、もう、大人にはわからない、

効率、効率…で生きている人には気づかない、素敵な回り道です

 

1ヶ月に234日もないよ!って

即答できるってことは、

だいたいどの月も30日くらいまででしょ、って知っているということ

 

1週間が何日かわからない

昨日、今日、明日、あさって、それから昨日の前の日、がわからない、

手が止まり、混乱する子もいます

 

教えなくていい、

ただただ、一緒に生活を楽しむのみ

秘訣としては独り言を少し意識して多めに(笑)

子どもはよく見ていて、よく聞いています

 

親が「調べもの」をするとき

どうしているのかも、ね

《2018年 1月24日投稿》

213.雪が降ったら

明日は関東の平野部にも雪が積もるかもしれない、という天気予報

月曜日は放課後どんぐり

みんなで雪遊びができるかな

 

毎回、授業の前に読み聞かせか、ゲームをしていますが、

先週たまたま読んだのが『ゆきおんな』

 

その前の週に読んだのは、最近買った新しめの絵本で、

私は「たまにはこういうのもいいかな」という軽い気持ちで選んで買いましたが、

こういう、古い絵本と比べると、

申し訳ないけれど、言葉や絵の重みが違って、

この絵本の場合は特に、内容も内容だけに、すごみがあるのです

1969年 第1刷

2016年 第50刷

私がうまれる前からある絵本

松谷みよ子さんが文を書き、

舞台芸術家で画家の朝倉摂さんが絵を描いています

 

最近は小学校での読み聞かせ活動が盛んなせいか、

子どもたちは絵本をよく知っていて、私が新しめの本を選ぶと

「それ、知ってる!」と言われることが多いです

たぶん、本当は知らないんだろうな、という子まで、

「それ、知ってる!」って言うんですけど(笑)

「そうなん?じゃあ…読むのやめようか」ってわざと言うと、

「ううん、読んで、読んで!!」って、もう、可愛いんだから

 

ところがこの絵本を知っている子はほとんどいませんでした

「ゆきおんな」といえば、日本の「妖怪」に分類される存在で、

名前は知っていても、わざわざこのような表紙の本は大人も子どもも、

手にとらないのかもしれません

 

しれ~っと読み出したクラスもあれば、

「こわい話…」と前置きして集中させなければならないクラスもありましたが、

2ページほど読んだあたりから、子どもたちは息でも止めているのかな?というくらい、

真剣に、なんともいえない表情で、引き込まれている様子でした

それは、どのクラスも…どの学年も…

 

私は、読み聞かせの時は子どもたちの方を見ないようにしています

以前、読み聞かせの勉強をした時には、

読みながら、子どもたちの表情をちゃんと見るように、と教わりましたが、

今は、なるべく顔を絵本からそらさないようにしています

そりゃあ、子どもたちがどんな顔で聞いているか、どんな反応をするのか、

見ていたいんですけど、でも、

私が顔を向けると、私の顔を見てしまうし、私の表情を気にしてしまいます

読む本は、時期や、その日の気候、タイミングに合わせて厳選しているので、

私はとにかくナレーターに徹し、

絵本と子どもとの間に流れる時間の邪魔をしないように気をつけているのです

そのくらい、絵本の力を尊重し、信じています

私なんぞにできないことを、絵本が代わりにしてくれる、というくらいに

そのためには、大げさに読んだり、パフォーマンスを交えたり、

読む前や読んだ後に説明や質問をしたりするのは禁物です

ただ、ただ、淡々と、あくまでも日常生活の一部のように、

ひたすら、本を読み聞かせます

 

子どもたちが息でも止めているのか?と感じたのも、顔を見たからではなく、

教室がそういう「空気」になっていったからです

 

遭難する猟師親子、

命を吸い取る雪女…

そんな怖い話が、美しく真剣で神秘的な絵と、地に足のついた言葉遣いで

ずんずんと語られていきます

絵本の勉強で、「セリフに抑揚をつけるな」「声色を変えるな」と教えられたこともありますが、

私は、どうしても演じてしまいます

それでも、男の声は低めに、女の声は高めにいうという程度、

スピードと、高低を使い分ける程度ですが

 

1年後にまた現れた雪女に、

男は、命を吸い取られてしまうのだろうか

文字通り、息をのむ展開です

 

でも、

子どもに媚びるような絵ではなく、日本画のように淡々とした無表情に近い絵で、

驚いているのか、怖がっているのか、寂しがっているのかも、

個人の解釈に委ねられています

 

…どうして雪女は…消えてしまったの?

 

不可解な終わり方で絵本は閉じられます

大人の事情なのです

切ない、雪女の恋の話なのです

 

絵本がどれだけの力を持っているか確かめるには、

こうして子どもたちの前で真剣に読んでみるといいのだな、と感じます

絵が全てを語ってしまう絵本もあるし、

せりふがわかりやすく登場人物もかわいくて親しみやすいものが最近は多いです

子どもが書店や図書館で手に取るのや、

大勢の子どもを相手に読める本を

一生懸命探してくださる読み聞かせボランティアの方などが選ぶのも、

「とっつきやすい」絵本が多いかもしれません

 

この絵本の中で

おとっつぁんが亡くなったことが読み取れる表現は

「もさくの いきは たえておった。」

そして、

「村の人たちに もさくが しんだことを しらせ、

なくなく、のべの おくりも すませた。」

とあるのです

この辺りを読みながら、

「いきはたえていた、ってことでおとっつぁんが亡くなったとわかるだろうか」

「のべのおくり(野辺送り…遺体を葬儀場まで運ぶこと)の意味はわかるだろうか」

と、0.1秒くらい、よぎるのですが、

誰も「どういう意味?」なんて聞かないのです

私も、もちろん中断して説明するなどしません

読み終わった後に質問もされなかったし、理解できたか確認するようなこともしません

 

何度も比較して申し訳ないけれど

先週読んだ本は、ファンキーな今時の絵本で、

たまにはこういうのもいいかなあ、とは思ったけれど、

読んでいる最中、子どもたちは笑うし、つっこみを入れるし、

私の表情と絵本とを交互に見ているような…そんな気もしたし

とにかく「ノリノリ」で聞いていて、一見、「いい感じの読み聞かせ」のような

端から見れば、そんな風にも見えたかもしれません

 

でも、

打って変わって今週読んだこの『ゆきおんな』で、あらためて、

絵本の力と、子どもたちの本来の心の豊かさや、賢さを垣間見た気がしました

 

意味のわからない言葉が出てきても、大丈夫なのです

もし、尋ねられたら、知っている限り、答えてあげてもいいけれど、

わかっているかどうか、なんて、そんなに重要ではないのです

いつか、全く別の場面、別の状況で、また同じ言葉に出会い、

「ああ!」となることがあるかもしれません

「よくわからなかったなあ…」とたいして思い入れもせずやり過ごしても、

いつか、全く別の場面、別の状況で、

「この光景どこかで…」と

思い出すかもしれません

 

必ず、子どもの心のどこかに、こういう絵本は残り続けます

わははー!と一緒に笑える絵本は絵本で、残るかもしれないけれど、

大人が想像するのとは全く別の状態で、

こういう絵本はきっと、子どもの心を揺さぶるのです

 

私は映画が好きで、できれば毎日1本は見続けたいけれど

今はそこまでは不可能なので、

ひと月に4本くらいのペースで色々な映画を見ています

それでも、全く見ることができない時期があって、そんな時、

映画にとってもお詳しい素敵な方に出会って、

久々に、映画の話ばかりして盛り上がったあとに、

「やっぱり映画を見よう」と、まずは「月4本」から再開したのでした

映画はたましいを揺さぶる、と

どんな映画を見ても感じます

もう、若くはないので、主人公に憧れたり、真似しようとしたりはしませんが、

ただただ、映画の話にその時だけはのめり込み、

泣いたり、笑ったり、怖がったり…考えさせられたり…

ただそれだけなんですけど、

その時の心境はまさに、

心の容器に静かに溜まっていただけの水を、

底の方からぐわっと掻き上げて、ぐるっと混ぜるような、

そんな感じです

容器を誰かが両手で持って、ゆさゆさっと揺さぶる、

そんな感じです

 

揺さぶられた心は、

新しいことを思いついたり、

さっきまで考え込んでいたことに別の視点を加えたり、

とにかくまあ、揺さぶられただけのことはあるな、という変化を見せます

 

非日常だから

創作だから?

 

子どもにとって、絵本も、

日常とはかけ離れた別世界を経験させるのと同時に、

子どもの心の中をくるくるとかき混ぜる役目があるのではないかな、と感じます

 

さて、

明日はこの町にも雪が積もるでしょうか

放課後どんぐりは、たまたま、市街地の公園を予定しています

積もっていれば雪遊びになります

濡れてもいい服装と手袋、長靴かスノーブーツで集まりましょう

暖かい晩ご飯と、お風呂をわかして、迎えに来てくださいね

 

公園だけでいいから、少し積もるといいな


《2018年 1月21日投稿》

208.赤いもの、5つ

最近生徒たちとした「無料ゲーム」の中で、

『おんなじさがし』というゲームがあります

紙と鉛筆を使います

 

たとえば、誰かが「お弁当の中身」とお題を出して、

全員で、自分の紙に鉛筆で、

5つだけ、「お弁当の中身」に相当する言葉を書きます

誰にも見せないように、見ないようにしてひとりひとりで書きます

制限時間を、1分にして、書いてもらいます

 

時間が来たら順番に、

自分の書いた「お弁当の中身」をひとつずつ、発表していきます

 

たとえば、「たまごやき」と誰かが言います

「たまごやき」を書いた人は全員、手を挙げます

発表した本人も、手を挙げます

挙がった手の本数が、「たまごやき」の配点になります

自分が書いたものの名前の横に、配点を書いていきます

順々に発表、挙手をしていき、全員が、書いたものを言い終えたら、

自分の得点を計算し、発表します

もちろん、高得点の人が優勝です

もし、自分しか書かなくて、自分以外誰も手を挙げてくれなかった場合、

それは、1点ではなく、0点となります

それ以外は、挙がった手の本数が配点になります

 

つまり、大人的視点でポイントを説明するならば、

自分の家の定番でも一般的にはレアだと思われるおかずを書くよりも、

より一般的な、よりあるある的なものをたくさん書いておいた方が高得点を狙えます

まあ、やっているうちにそういうことに気づく子どもたちですが

「動物園にいる動物」

「テンションがあがる晩ご飯のメニュー」などなど、

子どもたちに決めさせると楽しいですよ

ぜひ、御家族で遊んでみてください

 

実際に子どもたちと、この『おんなじさがし』をやってみて、気づいたことがあります

私が「赤いものといえば」というお題を出したときです

 

さあ、みなさんも赤いものを5つ、思い出してください

あるあるかな、とか、一般的かな、なんて考えないでいいです

だって、制限時間は1分間ですから

 

ちっちっちっちっち…

 

書けましたか?

 

いちご

りんご

トマト

キムチ

パプリカ

唐辛子

郵便ポスト

消防車

止まれの信号

スーパーマンのマント

……

他にも思いつきましたか?

 

これがですね、びっくりするほど、子どもたちは思いついてくれませんでした

ゲームですから、わざと急かすのですが、

ほとんどの子が、1分間に1個か、2個しか書けなかったのです

まあ、実際、「待って待って!」なんて言うから2分くらいになってしまって…

たくさん書けた子も、「赤いクレヨン」とか「赤鉛筆」とか…

これは、ルール違反ですが、そういう逃げに走っていました(笑)

その時は、たいしたことじゃないかな、と気にも留めていなかったのですが、

毎日いろんな子どもたちとやってみて、

全体的な傾向を見つけてしまって、あとからじわじわと、疑問が湧いてきました

 

なぜこんな簡単なことが…?

 

毎日、ふとした時に思いだしてしまいました

なぜなんだろう

書こうとしているときの、子どもたちの表情なども思い出しながら、色々と考えていました

わが子も含め、何かを書かせようとすると、とっても控えめになってしまう子が多いです

自由に書いていいのに、間違ってもいいから好きに書けばいいのに、

どうしよう、何を書いたらいいのだろう…と躊躇するのです

 

文章を書くのとは違って、ただ、思いつく言葉を羅列するだけなのに、

多くの子どもたちにとってかなり困難なことなのだ、という事実を知りました

もしかして、何かのキャラクターとか、アイテムとかを書かせたら、

延々と書くのかもしれませんが、

「赤いもの」という漠然としたお題が、子どもたちを悩ませたのでしょうか

 

ゲームが終わってから、「血」「消防車」「ポスト」など、

子どもたちが書かなかったものを私が言ってみると、

「なんだ~そういうのでいいのか~」とため息をついていました

そういうの、ってなんだろう(笑)

何にも条件はつけていないけれど、勝手にどこかに線引きをしていたのでしょうか

 

子どもたちのまわりに、

透明のバリアのようなものが見えることがあります

子ども自身が発しているというより、誰かによって包まれてしまっているような

 

もっと自由に

もっと伸びやかに

子どもたちの好きにさせてみる、という試みはいかがでしょうか

 

それでも私は、「好きにすればいいのに」と、

小さい子どもたちをできるだけ開放しようと試みた日の夜に、

ものすごく制約のある入試問題に対峙する中学生と勉強している日々です

時間内に難問を解かなくてはならない、

大量の設問に即答するために、とりあえず覚えなくてはならない、

そんな、「学ぶ喜び」とはほど遠いことを、しなければなりません

じっくり考えたい生徒と、じっくり長時間かけて数学の難問を解いてから、

「それでも、実際にはこれを5分で解かなくてはならない。だから、

もうちょっとシステマチックに解けるように練習しなければ」とアドバイスしなければなりません

長時間かけて解けたとしても、高校側にはその思考力は見えません

充分な思考力を備えていたとしても、

試験に臨む場合には、それなりのテクニックや手順が必要なのです

 

1,2年生の間に自分で試行錯誤して、

「試験」というものがどういうものなのか、経験したあとで、

3年生になって、入試に向かうためのスキルを身につけていきます

 

自由に自分の好きなように考えていいよ、と小学生に話したその日の夜、

中学生には、この問題はこう解くべきだ、と考え方を整理させなければならないことは、

矛盾しているのでしょうか

 

いいえ、

実は、これは矛盾していないのです

むしろ、

小学生の時に、教科書通り(だけ)じゃなく、自由に考える習慣があり、

間違いや評価を恐れずどんどん発想を表現できる経験を積んだ子は、

6年生になってから小学生内容を一気に復習すれば簡単に理解できるし、

中学生になってからの勉強の進め方も、自分で工夫してクリアしていきます

自分の受験する高校の入試問題を見れば、

どの程度の実力が必要で、どのように勉強をしていけばよいか、

判断することもできるでしょう

 

大事なのは、「言われたことだけをする」という状態ではないということです

たくさんの制約の中で、過ごしていない、ということです

だから、「よかれ」と思われる「習い事」でも危ういんですよ

制約のない習い事は少ないですから…

 

『おんなじさがし』をしてみる前に私がイメージしていたのは、

1分間で5個どころか、書ききれないほど思いついてしまうよ!という子どもたちの姿でした

でも、実際にそういう子はひとりもいなくて、

みんな、大変苦しんだ上でやっとのことで5つ、もしくは、5つに達しない状態でした

 

子どもたちが悪いのではありません

子どもたちが劣っているのでもないのです

だって、子どもたちは知っています

赤い色をした色々なものを、見たことがあるはずです

子どもたちの脳にはインプットされています

とりあえずアウトプットしてみる、という勇気がないだけです

 

子どもたちがアウトプットしようとすることを、

止めないでください

間違っていても、失敗しそうでも、へんてこりんでも、

まずは出させてみてください

何でも思いついていいし、何でも考えてみていい、って受けとめてあげてください

 

ここだけの話、私の次女が冬休みの宿題の作文を書いているのを見てびっくりしたのです

すごく嫌そうに書いていたのですが、できあがった文章を読んでみると、

いわゆる、先生が訂正しなそうな、無難に及第点がもらえそうな、

それはそれは彼女らしくない文章でした(次女に言わないでください(笑))

まあ、作文の話になるとまた別の話題になってしまうので、それはまた別の機会に…

 

でも、子どもたちが、何を恐れて表現しないでいるのか、

とても興味深く、また、危険性さえ感じました

表現はなにも、言葉だけではなく、

うまく言葉で伝えられないからと評価されないのもおかしいのですが、

それでも、

私たちは言葉を使う生物で、こうして、言葉で誰かに気持ちを伝える手段を持っているのです

 

書き言葉を使うようになった歴史は浅いけれど、

まずは会話でやりとりならできるはずなのです

 

しりとり

連想ゲーム

やはり、子どもたちとやってみると、びっくりするほど、語彙力が低下しています

先ほど、久々に書店に行ってみたら、

「小学生までに覚えさせたい言葉1000」というようなタイトルの問題集が並んでいました

問題集をさせても、表現力には実はつながりません

子どもたちは何を見て、言葉を使うようになると思いますか?

それは、子どもたちが、これまでのところ、どうやって言語を獲得してきたか考えれば

容易にわかります

 

私たち大人の、発する言葉、会話からです

言葉そのものも、言い方も、私たち、身近な大人から、子どもは獲得して成長してきました

だから、

関西で育った子は関西弁を話すでしょうし、

私の子どもたちは群馬弁を聞き慣れているし、話しているのです

 

問題集を買う前に、

国語力を高めよう、なんて目論んで本を読ませる前に、

言葉で伝えるという当たり前の手本を、大人が見せればいいのです

 

車の中ではステレオは切りましょう

家の中でも音の出る電子機器は切りましょう

それだけで、会話が増えます

親のひとりごとだって子どもは聞いています

ひとりごとバンザイ!適当に語りましょう(笑)

スマホを見つめて誰かと会話するのは子どもの前では控えましょう

画面だけのやりとりで、感情が動く手本をわざわざ見せなくていいです

 

運転しながら、散歩しながら、感じたことを言いましょう

「あれ、こんなところに新しいマンションが建っている」

「なんだろう、あの行列は…」

「確かこの辺りで前に野良猫を見たよね」

何気ないそんな言葉が、子どもの語彙力を増やします

 

…文章に書くとなんて陳腐なんでしょう

そんなことを伝えたいわけではないのに…

 

わたしはただ、子どもとの暮らしを楽しんでほしいだけなんです

それでもって、私の立場的に、ちょいとアカデミックなことを言い足しているだけなんです

 

それで、実は…

生活の中で体も、頭も、ほとんどが育つ子どもたち、それなのに、

作文が書けないとか、国語ができないとか、成績がどうこうとか…

あとで、その当事者の、親御さん自身に責められる子どもたちを、もう見たくないからなんです

 

だから、いろんな意味で、発想を変えてほしいのです

今、楽しんじゃって大丈夫なんだってことを伝えたいのと、

今から、小さくまとめちゃうとあとで大変ですよ、って忠告をしたいのと、

子どもたちは、私たちが思うよりずっと、多くの制約の中で生きている、

それなのに、自由に表現させようとすることは困難なことで、

でも、実際に、「入試改革」とかいって、これからの「試験」は、

思考力とか、表現力とかを問う問題に変わってくるとかいうのですから!

 

○○してはいけない、というしばりだけが子どもたちへの制約ではありません

お店の駐車場や駅のホーム、エスカレーターでは自動音声が話しているし、

車に乗れば目視は不要なほどの最新装備

学校では物の貸し借りや、他のクラスへの出入りはしないのが当たり前

物の置き方、積み重ね方も決まっていて、子どもたちは当たり前に守っている

考える必要などなく

 

考える、必要がない生活なんです

 

それなのに、思考力をどこで育てようというのでしょうか

 

家庭で育てましょう

心豊かな、賢い子どもを育てましょう

世の中が変わっても、人間は、この能力を失うわけにはいきません

言葉を使い、思考力を駆使して生きていく

機械が発達すればするほど、それを使いこなせるのは結局、

本物の思考力がある人だけで、

他の人は、機械に振りまわされて生きていくことに、なるのではないでしょうか

 

子どもとの暮らしに、電子音は要りません

さ、しりとりして過ごしましょう

お料理しながらでも相手ができますよ

新聞を読んだりテレビを見たりする前に、

子どもと『おんなじさがし』をして遊んでみてください

2人でするなら、いくつ一致するかで相性診断♪みたいにしても楽しいですよ

《2018年 1月9日投稿》

207.2018年はなにしよう

2017年は「放課後どんぐり」を始めて、

子どもたちの教室での様子も刻々と変わっていきました

 

大人の方にはわからないでしょうか

学校の先生はわかっているでしょうか

子どもは、遊びを通して誰かと心を通わせ合い、相手を知り、

いろんなことを学んでいることを

 

どんぐり学舎は、遊びのための教室ではないけれど、

なんのゆとりもない、楽しくない状況で子どもたちの思考力が伸びるはずはないと

確信しているので、「導入」を大切にしています

できれば、ここに来る前に、子どもたちを充分ほぐして、

充分リラックスさせて来てもらいたいけれど、

学校から帰って、ここへ送ってくるということが、義務のようになっているご家庭では、

時間的にも難しいのかもしれないですね

せめて、送ってくださる道中では、いろんな話をしたり、歌を歌ったり、言葉遊びをしたりして、

親子のあたたかなコミュニケーションを大切にしながら、来てくださいね

 

「導入」では、絵本を読んだり、カードゲームやボードゲームをして楽しむのですが、

昨年の最後の方の授業では、「無料でできるゲーム」をいうのをいくつか紹介しました

紙と鉛筆があればできるゲーム、それから、何にもなくてもできるゲームです

すごく単純なルールでも、子どもたちはげらげら笑って、あっという間にほぐれます

 

お正月で、もし、たくさんの子どもたちが集まっているご家庭があったら、ぜひ試してみてください

ここでは、何の道具もいらない無料のゲームをひとつご紹介します

 

曜日クラス対抗で競ったのが『16まで数えよう』ゲームです

【ルール】

全員、目隠しをして、「1」から「16」まで数えるだけです

ただし、

ひとり、ひとつずつしか数字を言えません

順番に言うのではなく、ランダムに言っていきます

目隠しをしているので、誰が何を言ったか見えません

もし、2人以上の人が同時に同じ数字を言ってしまったら、

また1から数え直しです

「16」まで無事にひとりずつ言えたら、終了です

ねっころがってもできます(笑)

渋滞の車の中でも家族みんなでできそうですね

運転手さんは充分に気をつけて…

チームワークなのか、性格の問題なのか、すんなりと16まで言えてしまうクラスと、

いつまでたっても言えないクラスとあって、全部見ていた私には不思議でたまらないゲームでしたよ

 

我が家では随分前にブームだった、『アルゴ』も急に流行りました

これは4人まで対戦できるゲームです

推理力、洞察力が必要…

 

年末最後の週には2017年のしめくくりとして、「光るスライム」を作りました

「光るよ」とは言わずに、途中で蓄光塗料を入れて、最後に電気を消すのですが…

まだあまり光にあてていない状態では光も弱いので、

「まだ赤ちゃんのスライムだから、エサをいっぱい食べさせないと。エサは光だからね。」

と教えると、

ライトの下に置いて光をいっぱい食べさせている子どもたち

帰り際、庭に出ても、みんなで手に容器を持って照明の下にかざして「ほら、ほら」と

光をいっぱい浴びさせている様子はたまらなく、かわいかったです

 

そして、2017年最後の放課後どんぐりは、

強風の中…焚き火でした

えーっ!!火起こしから!?

すごいすごい!素晴らしい装置をリュックに入れて、自転車で颯爽と駆けつけてくれたK君

すぐに煙が出たけど、この日はあまりにも風が強すぎて、火起こしは断念

みんな興味津々で、いつまでも挑戦は続きましたよ

1日がかりで遊べる日に、あきらめずに挑戦してみようね!

焚き火が落ち着くまでまだ寒いから段ボールで遊ぼう!

私も3往復ほどやっていたら、汗ばむほど暖かくなりましたよ

めいめいが持ち寄った「美味しいもの」「焼いたら美味しそうなもの」を、

どんどん火に近づけました

マシュマロ、

りんご、

パン、

干し芋、

焼き芋、

じゃがいも…

お腹いっぱい食べました

火はいいいねえ、見ているだけで癒やされます

また近いうちにやりましょう

 

放課後どんぐりを終え、私は今年最後の授業の準備にとりかかりました

とはいっても、私にとっての年末は年度末で、中3生は入試直前でもあるので、

ちっとも「終わった」感はないのですけれどね

それでも、みんなが少しだけ楽しみにしてくれている「最後の日のプレゼント」は

今年も用意しました

子どもたちにとって、年末年始って特別ですよね

クリスマスやお正月で、わくわくしています

たいしたものは用意できないけど、毎年、みんなへのプレゼントを考えるのが恒例に…

 

最後に、私がもらった年末一番嬉しかったプレゼント

折り紙をちぎって、

どんぐりや木片で飾り付けした、立体的なメッセージカードです

嬉しくて、教室に立てかけて眺めていたけれど、

みんなが帰って静かになった教室でひとり、あらためて眺めていたら、

泣きそうになってきました

 

いま、新年度に向けての準備を始めています

「圧倒的に遊びが不足している」小学生にはまだまだ遊びのチャンスを作りたい

それによって培われるものを明記するのや、

その目的のために遊ぶのだ、なんて言うのは好きではないけれど、

最初に書いたように、子どもたちは、遊びを通して学ぶのです

人との関係も、自分の力加減や、工夫することも

かつて、放っておいても勝手にそういうことを獲得していた子どもたちとは違い、

今の時代を生きる子どもたちには、「圧倒的に不足している」状態を解消するために、

どうしても大人の努力と工夫が必要です

 

それまで、同じ教室にいても、全くお互いに口をきくこともなかった子たちが、

ある放課後どんぐりの直後から、談笑するようになりました

私には、そのクラスの空気が、ふわっと緩んで、なんだかとっても柔らかで、

あたたかな空気になったと感じられました

無表情だった子の口角が、ずっと上がっていて、目が優しいのです

 

塾なら塾らしく、

勉強だけ教えてくれたらそれでいいのだ!と

言われてしまうと何から説明しようかなあ、っていうところですが、

もしそんなことを言われたとしても、私は全く、動じることなく、断言することができます

賢い子どもを育てたいなら、

家庭内で完結させないこと、教えないこと、特訓しないこと、習わせないこと、

親の思いを、言葉にして浴びせないこと

 

子どもは本来賢いです

だから、「教え込んで」「習わせる」と、あっというまに「習得した」ように見えることがあります

でも、その先ずっと、その能力が持続するかどうかは、その原動力がなんなのかに因ります

大人は思うでしょう

「将来のためになるから」「努力すべきだから」「自分のためになるから」

いいえ、子どもはそんなもののために努力を持続することはできません

子どもの原動力はただひとつ、「楽しいから」しかありません

楽しいことばかりやっていたら、

いずれ来る厳しい現実に対応できないひ弱な人間に育つのではないか

…これは、真面目で、厳格で、優秀な、「お父さん」からよく聞く言葉ですが、

そんなことは一切ありません

そんなことをしっかりと肝に銘じて努力を続けている子どもがいたら、ぜひ紹介していただきたい

少なくとも、私の周囲にそんな子はいません

何かしらのことに秀でていて、周囲から評価されている子どもを何人か知っていますが、

会ってすぐに、性格的に、成長段階で、抱える大きな問題を見つけてしまいました

これからどのように解消していくのか、心配してしまったほどです

(もちろん、全員が全員、そんな子ばかりではありませんが、

ちゃんと心の成長も遂げている子は少ないです、現実。)

 

「いずれ来る厳しい現実に対応」できる強い子は、

幼い日々に、楽しくて、無条件で自由で、自分次第でどうにでもなった最高の思い出を

たくさん持っている子です

幼い頃から、厳しい現実の予行演習ばかりをしていた子は、何をよりどころに努力ができましょう

「厳格な」お父さんにだって、きっとあるはずです

ご自分をささえる心の中のある部分が、厳しいことだけではなく、

誰かに大切にされた経験だったり、

自分で好きなように自由にできた楽しい思い出だったり

ほんの少しの経験であっても、たった1回しか味わっていない景色であったとしても、

心の支えになっているのは、そういうものではないでしょうか

 

たった1回でも経験させたい

なにやってんだか!と言われても、呆れられても、私は続けたいのです

放課後どんぐりには、親御さんの送迎がほとんどのお子さんにとって必須です

自力で会場に来られる子は少ないです

晩ご飯の支度で忙しい時間、送迎のご苦労は大変だと思います

でも「期間限定だから」と毎回、ほんのちょっとの時間のためにもせっせと送迎をしてくれる

そんな親御さんたちのお子さんは幸せです

 

子ども同士、もめごともあります

集団あそび、縦の繋がりに慣れていないなあ…と感じる出来事も多々あります

私しか大人がいない時には自分たちで解決するのに、

親御さんがいるとワガママを言い出す子も多いです

親御さんにとっても学びの場かもしれませんね

ワガママは、通してよい時と、だめな時があると思います

ちなみにわが子は私のせいで、いつでも「親がいる」状態で遊んでいるわけですが、

私が娘にワガママを言われていたり、何か命令されたりする様子を

見たことがある人はいないでしょう

家でも、子どもに命令されることなどありませんから、それは普通ですが…

毅然とした態度でいることも、親には必須です

これは、長くなるのでまた別の機会に

 

さて

「いずれ来る厳しい現実」

まずは中学校生活でしょうか

膨大な課題、

部活動との両立、

周囲は塾通い…

情報だけでは焦ってしまうのも無理はないでしょう

 

2018年、中学生の独学支援室も一新する予定です

つまらない噂に振りまわされ、子どもの現実も知らないまま、流されていく危険を防ぐために

中学生自身にきっぱりと自立してもらうために

親御さんが学び、知ることも大切ですし、

中学生自身が、しっかりと自分を知ることも重要です

どうしたら、親御さんたちの不安を解消し、

中学生自身にもっと自立心を持ってもらえるのか

毎日考えています

 

考えることや、やりたいことが多すぎて、

元日からブログを書いているのでした

 

2018年も どんぐり学舎 & D→K Room は

子どもたちの視点で本気で研究を続けます

私はいつでも本気です

親御さんもどうか本気でお願いします

じゃないと、お互いの時間も労力も生かされませんものね

ずっと本気なんて疲れちゃう?

みなさんには一瞬のことではないですか

一瞬ですよ、親の影響力が子どもにある時期なんて

今だけ、ぎゅっと!ですよ

今だけぎゅっと、楽しみましょ、がんばりましょう

《2018年 1月1日投稿》

200.【ゲーム紹介】チロリアン・ルーレット

久々にmomoさんに仕入れに伺うと、すでにクリスマスツリーが飾られていてうっとり

今回も、子どもたちが喜びそうなゲームを仕入れてきました

早速開封して、金曜日生たちと盛り上がりました

今週は『チロリアン・ルーレット』

ルールは簡単

盤上には赤い玉・緑の玉・白い玉

そしてコマ

コマを廻すと、玉が飛び散って、周囲の穴に入ります

コマが止まったら、穴のところに書いてある数字を足して、

合計点数を累積していきます

順番に廻し、点数を加算し、一番に合計目標点に達した人が優勝!

ただし、

赤い玉は入った穴の数を「2倍」できて、

緑の玉は入った穴の数字を引かなければなりません

そして、全ての玉が穴に入ったら、「ボーナスチャンス!」で

点数を加算した上にもう一度コマを廻すことができます

ただコマを廻し、点数を足していくだけです

今回は、1つのクラスは目標点を200点に設定しました

人数が少なかったので、何回も順番が来て、先に200点に達した子が優勝

もうひとつのクラスは人数が多く、時間もなかったので目標点を100点に設定しましたが、

なんと、「100点」の穴に玉が入って優勝者が即決!!素晴らしい奇跡に、みな絶句しました

 

記録は紙に書いていきますし、計算も紙に書いてしていいのですが、

緑の玉の数字をどこで引き算するかとか、赤い玉の数字を2倍しながら足していくのとか、

結構、工夫が必要で、みな苦労していました

この数字とこの数字を先に足した方が早いよ、とか、

先に引いちゃえばこの数字がこうなると、とか、

それぞれに工夫していましたよ

以前から人気の『足し算ゲーム』と比較すると、ちょっと計算が複雑になります

それでも、コマを廻して、ただただ、運に任せて玉の行方を見守るのは

単純ながらドキドキして楽しいようです

小さい子なら、色玉ルールなしで、いくつの穴に入ったか、ということだけでも遊べます

ただ、とっても玉が小さいので、あんまり小さなお子さんには不向きです

ま、喉につまるサイズじゃないけれど…

 

木製のおもちゃにはついつい手が伸びてしまいます

子どもたちとこういうおもちゃを囲んでいると、

なんだかとっても穏やかで豊かな気持ちになるのです

そして、片付けずにそこらにぽい、と置いてあってもなんだかステキ

 

我が家にプラスチックのおもちゃがほとんどないのは

ただの私の趣味の偏りでもあるけれど、

木製のものの命を感じるのが好きで、

子どもたちをいつまでも見守ってくれている気がする安心感からかもしれません

 

チロリアン・ルーレット

おすすめです

どんぐり学舎 おもちゃの仕入れ先

momo

《2017年 10月28日投稿》

197.親と子の距離を考える

昨日も《放課後どんぐり》

今は、定番遊び場を模索中で、

あちこち行っています

 

昨日は、小さい頃、私も遊んでいた公園

自分がなにをしていたかな~と思いだし、

そうだ、砂鉄集めだ、と思いつき、取り急ぎ、磁石や袋を持っていったものの…

うーむ

改善の余地有り

悔しいので次回、もっとちゃんと材料を集めて再挑戦!!

 

他にも、「ゴム跳び」

暗闇でケイドロ(ドロケイ?)

(どっ…どこにいるんだ!?子どもたち!闇の中にたくさんいるんですけど…)

 

砂鉄集めを一貫して続ける子、

ブランコ、

ターザンロープ、

子どもたちは自由気ままに遊んでいました

時にはちょっとしたトラブルも

 

親たちは主に砂鉄集めの砂場付近にいて、

井戸端会議(必須)(笑)

昭和の女としてゴム跳びの手本もみせましたよね!

 

仲間が大事なのは子どもだけではないですからね

初めて会っても、すぐ仲良しに

 

何回か《放課後どんぐり》やってきて、まだまだ定着するにはほど遠いのですが、

ふと、これから、もっと自然に、もっと昔の子みたいに、

逞しく、楽しくこの時間を過ごして貰うにはどうしたらいいかなぁ

と、なにをしていても最近は頭をよぎります

 

これは、親御さんにはわからないだろうけれど、

普段の教室での様子とあまりにも違う子どもたち

なにが違うって、親が近くにいる、という状態の、子どもたち

 

それは、すごく幸せなこと

それは、すごくほっとすること

親が近くにいてくれるなんて、親が遊び場に一緒にいてくれるなんて…親が…

 

いないんです。本当は!

 

いなかったでしょう?子どもの頃、親が、子ども同士の遊び場に

 

だから、実は悩んでいるんです

子どもは、親の見ていないところで成長する

 

でも、現代のような密室育児で、それはとても難しいことです

これは、赤ん坊との閉鎖的とも言える暮らしから「親業」を始めた私たちには、

痛感してしまっている事実です

だって、いつでも親とでなくちゃならないんだもの

大変でしたね

「子どもとだけ」の暮らしに、息が詰まりかけたことも、正直ありましたよね

でもそれは、

子どもにとっても同じことなのです

 

だから、地域を変えよう、世の中を変えよう、なんて、今から、無理…

もちろん、私は諦めていないけれど

だから、せめて、気づいちゃった親御さんだけは、

このことを一緒に考えてもらえませんか

子どもの、本来の成長のために

親ができることって何なのか

 

さっき、「教室での様子とあまりにも違う」と書きました

なにがどう違うか、説明しましょう

 

まず、目が違います

時間まで思い切り遊べる!という興奮状態のいい目でもあるのですが、

なんだろう、教室にいる時は、自分の足でしっかりと立とうとしている感じ、

でも、

親御さんの近くにいる時は、少しふらついている、自分で立とうとしていない感じ

だって、自分でしっかりとしていなくてもいいんだもの

親御さんが近くにいるんだから

 

だから、

子どもだけでいる時の空気と比べると、

穴の空いたバケツみたいに、パンクしかけのタイヤみたいに、

どこからか、何かがすーすー漏れているような…そんな空気を感じます

 

「荷物持ってて!」

「トイレ!」

「あれはどこ!?」

「ちょっと来て!」

子どもたちは、親に強めの命令口調です

 

すごーーーーく違和感があります

うちでは、あり得なかったから…

私が厳しすぎたのでしょうか…

 

もしかして家の中でもそうなのでしょうか

「醤油!」と言われて、お醤油をはいはい、と差し出すのでしょうか

「のど渇いた!」と言われて、飲み物をはいはい、と差し出すのでしょうか

うちならまず、「醤油がなぁに?」と言い返し、ちゃんと言えるまで渡しませんが、

そもそもそんなことは幼児期に済んでいることで、

そんな言葉を子どもに掛けられることは、内でも外でもありません

 

そして、教室では、なにかトラブルがあると大人は私しかいませんから、

まずは、私に訴える前に自分たちでなんとかしようと四苦八苦しています

私に訴えたところで「自分たちで考えてみ」って

言われるのを承知しているというのもあります

いよいよ困ると訴えてくるし、私も絶対に手助けをしない訳ではありません

 

親御さんが近くにいると、トラブル発生と同時に、子どもの足はますますがたつきます

「どうにかしてよ!」と親に訴えてくる

親御さんも、どうにかしてあげようとする

 

なにしろ、これまでの活動の中で、

親御さんが自分の子に、びしっと厳しい言葉を掛けているのを、

ほとんど見たことがありません

 

言い方を直させたり、だめなものはダメ、と制止したり、そういう様子も見たことがありません

 

みんながいるから?

それでは…家の中では、結構厳しく言うのでしょうか…?

 

子どもは、家の中と外とで自分に対して言うことが違うことを、

察しています

家の中だろうと外だろうと、だめなものはダメだし、

言うべきことは言わなければならないし、

なにしろ、一番大事なのは、態度を変えてはいけないということです

 

たとえば、みんなでいるときに、よくない言葉遣いをしたら…

その場で、もしくは少し場から離して、「それは違うでしょう」と正せばいいのです

ぐちぐちといつまでも説教をして、

ちゃんと納得するまで説明せよ、ということではありません

いかんものはいかんのだ。とはっきり、きっぱり、短い言葉でひとこと

それだけで、子どもはわかります

感情を込める必要はありません

きちんとした言葉で、しっかりと心を込めるだけです

たいがい、子どもを叱る時は、親は感情を爆発させます

でも、それではなにも伝わらない

特にみんなの前で恥ずかしい叱られ方をしたら、たまったものではありません

でも、

いかんものは、いかん

びしっとひとこと

それで、次の瞬間は笑えばいいのです

ダメでしょ~なんてふにゃあ~って言うくらいなら、言わなくていいんです

みんなの手前、注意しなきゃあ~程度の思いなら

 

はて…

私は教室でそうしていますよ

「その言葉はいけない。」とたった一言。

大概の子は、二度と言いません

 

でも私も、親御さんのいる前で、いつものように、がなかなかできなくて、もどかしいのです

本当なら親が言うべきところだよなあ…という思いもよぎり

難しいですね、子どもも親を頼り切っている状態で私の存在というのは

…で、ふとわが子を見ると、全く寄ってこないし…

 

今は、事情があって、はじまりから私が参加していないというのもあり、

子どもたちに話す時間がないのですが、

私は子どもたちに話そうと思います

 

《放課後どんぐり》は子どものための時間

親子のための時間ではないんだよ

みんなで集まるには、親御さんに送迎の協力をしてもらわなくちゃならない

だから、付き添って来てもらっているけれど、

でも、一緒に遊ぶために集まっているのではないんだよ

せっかく子ども同士いっぱい遊べるのだから、

いつもみたいに、子ども同士で考えてみよう、解決してみようね

 

親御さんにも、この時間を大切に思ってもらいたいし、

子どもたちを遊びで満たす協力をしてもらいたいから、

なんとか一緒に方法を考えてもらいたいのです

 

「井戸端会議」必須

ということの意味は、

子どもなんか見ずにおしゃべりに夢中になっていていいですよ、ってことです

子どもと離れた場所に本部を作りましょう

荷物置き場を見張っていましょう

それで、おしゃべりしてましょう

川遊びとは違います

まあ、暗闇では一応、子どもの様子も見つつ…

 

そして、絶対に…絶対に…子どもの前で子どもの話をしないでください

これは、いつもお願いしていること

 

少しずつ、少しずつ…で、いいですから、頑張ってみてください

 

この時間がすごくナチュラルな、子どもにとって最高の時間になるように、

私はただそれだけを願って頑張っています

 

頑張るのは大人だけ

 

意識を変えるのは、大人だけです

 

子どもは、そのまんまで大丈夫

 

親と子の距離

とっても参考になる本をご紹介します

(私も最近教えていただき、読みました)

夜の公園

なかなかステキ

この公園にどれだけの思い出があるかなあ…と久々にあちこち眺めながら考えていました

近所にはスーパーがあって、商店街もありました(商店街はまだあります)

親が井戸端会議を始めると、「チャンス!」とばかりに子どもたちは勝手に遊び出します

親と子の世界は別々でした

もちろん、放課後、遊ぶために車でどこかに連れて行ってもらう必要など、

なかったのですから…

今の状態を不自然と言われれば否定はできません

でも、私はあきらめず、探し続けます

子どもたちのためなら、頑張れる親御さんばかりだから

今だけぎゅっと、と心に決めている人たちばかりだから

私の子育ては終盤近く

でも、まだまだずっと、応援したいから

 

《放課後どんぐり》

来週は、砂鉄集めリベンジ!

お楽しみに!

《2017年 10月6日投稿》

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