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62.素直さを、はぐくむ。

わたしの経験上、素直な子は伸びます

伸びたか伸びなかったかは結果論で、

素直な子は結局楽しんで勉強するからなのです

では

どうしたら素直な子が育つのでしょう

わたしの大好きな、この本には

子どもが子どもらしく素直に育つために必要な

大人のありかたについての

ヒントがたくさんあるように思えます

翻訳家で、児童文学研究者の松岡享子さん

財団法人東京こども図書館を創立する前には

ご自宅を子ども図書館のように開放していた経験もあり

本や図書館を通して子どもをよーーく観察して、

ご自身なりにいろいろなことを発見なさったんですね

わたしも大好きだった「くまのパディントンシリーズ」の訳者でもあります

(まずこういった方はご自身が子どものように素直なのでしょうね…)

1978年第一刷発行とありますが

すでに現代にも通じる、子どもをとりまく問題点が指摘されています

 

〈引用〉

ものが“聞ける”子に

(前略)

 ところが、ここ二、三年のことだが、お話を聞く子どもたちの態度が、以前と比べて変わってきたことを感じないではいられなくなった。第一、話をするわたしの目を見ないで話を聞く子が増えてきた。話に食いついてくる食いつきかたが弱くなった。昔話のようにくり返しが多く、先を予想することが容易であるように仕組まれた話でさえ、予想や期待を示さず、だらっとした気分で聞いている。くすぐりやからかいには割合よく反応するが、本当のおかしみには鈍感である、等々…。

 なかでも、話し手の目を見ないで話を聞く子がいるのは、話をする側にとっては、こちらの人格が無視されたような気がして実に不愉快なものである。強制されたのならいざしらず、自分でお話を聞きたいといってはいってきて、また実際お話は聞いているのだが、話し手に向き合おうとしないのはどういうことなのか?

 あれこれわたしなりに理由をさぐってみると、やはり行きつくのは、テレビ、もしくはテレビに代表されるもろもろの機械的に再生された声の氾濫ということである。テレビやラジオや、レコードや電話や、そういったものの全然存在しなかった時代、人が人の声を耳にする時、そこには必ずその声を発した人が存在することを意味していた。声はすなわち人であり、人格であった。

 そのような時代には、赤ん坊が生まれてはじめて聞く声は、おそらく母親か、あるいは母親の役をしてくれる人の声だったろう。耳が聞こえはじめ、ある声を他の声、あるいは音から区別して認識するようになるとき、最初にそれと認めるのは母親の声だったろう。その母親は、子どもにとっては、自分の生命を維持してくれ、自分に愛情を注ぎかけてくれ、つまり、自分の全存在をささえてくれる人である。その人の声をその人と分かち合い難いものとして認識すること、それが、子どもの声というものに対する認識の根本になったと思われる。だから、母親の声がすれば、その方へ身体を向け、手を伸ばし、目を動かしてその姿を探し求めようとするのである。

 母親についで、父親、きょうだい、その他の家族知人と、子どもが識別できる声がふえていくとき、子どもはその声の主と、やはりなんらかの意味で関係をもっていく。そして、それは、相手がこちらを向けば、自分も相手に向かわなければならないという人格的な関係なのである。

 それが、今はどうであろう。生まれて間もなく、まだ耳もよく聞こえないうちから、子どもの耳もとでテレビが鳴り、ラジオがしゃべっている。母親の声を声として聞き分ける以前に、子どもは、機械から流れてくる人格をともなわない声にさらされてしまっている。

 となると、声がするということは、子どもにとって、切実な意味をもつことにはならない。声のする方向へ目を向けても、笑顔で(ということは、つまり人間的、人格的かかわりをもって)その子に応えてくれる人がそこにいることを意味しないからである。いくらそこから優しく語りかける声が流れてきても、黒や茶色の箱とは、子どもは関係を結ぶことができない。となると、声が聞こえてきても、そちらへ向きなおること、声の主に対して心を開くことをしなくなるのも当然ではないだろうか。

(後略)

 

これが、わたしが小学校に入るか入らないかくらいに書かれた文章なのですから、

いったい、現代の子どもたちはこのあとどうなってしまったのでしょうか

教員をしている友人たちもずいぶん前から嘆いていました

「話なんか聞かない、当たり前のように、聞かないよ」

集団生活ならなおさらでしょう

だから「お便り」に事細かに親への依頼のような文言が多いのでしょうか

わたしは見てやらない(やれない…?)ので

我が子は「帰りの会」で先生に言われたことを帰宅するなりわたしに伝え

用意する物はすぐに一緒に用意するのですがね…

 

わたしはごく少人数で授業をしていますがそれでも

「いま、わたしあなたに話しているのよ」

という気持ちで両肩をそっと持って真正面から顔を見ないと伝わらない子もいます

先日は某専門職に就いている友人が

学生が研修に来たけれど話を聞いているのかいないのか、

話し掛けてくるけど誰に話しているのか、

相手とのコミュニケーションなどまるで関係ないような態度で

育ちを疑った…と嘆いており…

ある程度の学力がないとたどり着けない職業であり、

お勉強だけはできるはずの学生だという話でしたが…

 

さっきの話、

わたしが両肩を持って真正面から微笑んで、

「あなたに話しているのよ」という気持ちで向き合うと

たいていの生徒はにっこりして「あ、そうかそうか」という表情を見せます

話を聞かないのはその子自身のせいではないと

わかっています

子どもは本来、素直で、優しく、思いやりに溢れています

 

上記の文章にもあるように、

子どもたちの耳は、情報の認識力は、

赤ちゃんからの家庭環境で作られてしまっているのです

みすみす、我が子の情緒面や学習面に支障を来す環境をこしらえる親たちに

わたしは色々な場で話せる時は話してきたのですが

それよりなにが勝るのか、どうしても静かで穏やかな環境を

子どもの耳と心と目がすくすくと素直に育つ環境を

守れずにいる人が多すぎます

ほんのいっときではないですか

 

この本の第一刷が出版された頃、わたしの母はわたしと弟の子育て中でした

やはり、絵本や自然遊びを中心にナチュラルな子育てをしてくれた母は

ことにテレビを避けていたようでした

母がこの本を読んだかどうか知りませんし、

今のわたしのように積極的に発達や児童心理を学んだかどうかといえば

それは全くなく、ごく普通の母親でした

でも、本能的に「テレビをつけっぱなしにするのは好きじゃない」という感覚をもっており

見たい時に見たい番組を見る!というケジメがありましたし、

長時間見続ける、ということはまずありませんでした

おかげでわたしもテレビ番組は厳選して見る人間に育ち、

子育て中は子どもにテレビを見せることも一切しませんでした

(まず、リビングにテレビを置きません。大人の寝室にひとつ、あるだけです、今でも。)

長女が小学校高学年になると

友達との話題に出たり、自分で新聞のテレビ欄に目を通したりして

「これが見たい」といわれると録画してやり、

再生方法を覚えさせ、

見たい時に見れば~などと放っておいていますが

全く見ない日がほとんどですし、わたしの授業中などに見ている気配もありますが

誰にもなにもいわれなくても

少したつと

(たぶん見ると決めたモノを見終えると)

ばたばたばた…と自分たちの寝室に戻る音がするのです

でも、

オリンピックや高校野球は一緒に見ることもありますし、

大晦日には寝室の狭いこたつを家族で囲み、紅白歌合戦を見ます

大好きな番組は毎週予約してやり、

見たい時に見る、と好きにやっている昨今です

注意しているのはニュースや、お笑い系や、サスペンスドラマでしょうか

とにかく今は安心して見せられる番組はとても少ないです

 

糸山先生は言います

一方的で、不自然な時間の流れの連続である刺激を受け続けるTVやDVDのかけ流しなどの情報攻撃は

感じ・味わい・考えるという最も思考力養成に重要な時間を浪費し、使えなくする。

→感味力の喪失。TVのニュースは異常な出来事の連続なので危険は倍増する。

 

お笑い系は大人にとっては気楽な娯楽でしかないのですが

平気で人の頭をたたいたり、人の容姿を笑いものにしたり、

そう、分別がついてからならどうってことない、気にしすぎ、と思われるかもしれませんが

生徒たちの中にはすっかりそういう人とのやりとりが板についてしまっている子もいるのです

小中学生の、子ども同士の会話を聞いたことはありますか?

 

親は知ってか知らずか、子どもの感覚を思い出さずに自分の趣味嗜好で番組を選んでしまうと

良いと思っても逆効果だったりするので要注意です

わたしは自分は好きですが科学系の種明かし(工場の秘密とかものの仕組みとか)系も

子どもには早いうちに見せるべきでないと考えています

「知ってる」

って言うんですよ

見たこともないし、自分で考えたわけでも、自分で見つけたわけでもないのに

テレビなんですね

そしてインターネット

小学生が、

自分でなんにも体験していないうちから「知ってる」「見たことある」って言うのを聞くと

ああ、かわいそうだなあ…と思うのです

テレビで見る前に、経験させてあげたいですね

 

絶対に経験できないような、なかなか行けないような場所に、

連れて行ってもらえる感覚を味わえるのも

テレビの良さではあるのですが、それは、子どもには害でしかないと思うのです

だって、

わたしたち大人より、まだまだこれからの将来は続き、

どんなことを経験していくのか未知数なのです

もっともっと、自分の頭で考え、自分の心で感じ、そして動く、という感覚を

いっぱい、いっぱい経験させてからでいいではないですか

 

最近あまり見なくなりましたが、

わたしの大好きなムツゴロウさんが先日動物の番組に出ていました

長女が愛して止まない「ウォンバット」が出ると踏んで録画しておいたその番組を

夕べ三人で見ていました

2時間もあるのでいっぺんには見られません

少しずつ、楽しみながら見ているのですが…

オーストラリア周辺の珍しい有袋類などを紹介するコーナーに

やはりウォンバットは出てきて、

きゃーきゃー言いながら何度も巻き戻しては見ていたのです

次に、

カモノハシが出てきたのですが

ちょうどその頃夫が帰宅しました

 

ムツさんたちは野生のカモノハシがいる水辺に行きましたが

そこにいるのは見えるのですが水面から姿を現すこともなく

警戒心が強いので全く近づくこともできません

そこで、カモノハシの研究施設に移動して、

飼育されているカモノハシを見せてもらうことにしたのです

透明のプールで泳ぐカモノハシを見て、触れ合って、ムツさんも、

テレビの前の娘たちも感激

すると夫が

「なんだよ、最初からここに来ればいいじゃんか」

 

こういう、大人独特のつっこみが、

子どもの素直さを奪っていくのです

夫婦ふたりで見ることが多いテレビです

ふたりだとあらゆることにつっこみを入れながら

適当に笑って過ごせるのですが

子どもの前ではそうはいきません

別に、神経をとがらせているわけではありません

わたしは夕方から子どもたちといて、

庭で遊ぶのや、台所を手伝うのや、絵を描くのなんかを

一緒に過ごしているから、なんとなく自分も子どもゴコロっていうか、

これは本当に子どもに感謝ですが、

子どもといると全ての物が美しいというか、愛おしいというか、

なにもかもがわくわくする、どきどきするものに戻るのです

だから

小鳥が来てるとか

小枝が揺れてるとか

近所の無人販売所に野菜がなかったとかあったとか

救急車の音がするとかしないとか

「だからどうした」という些細な会話さえも

子どもとだと楽しくて愛おしくて…

でも、

外で朝から晩まで働いてきた夫には

そう、帰宅したばかりの夫からはある種のオーラが出ているのですが

疲れ切って、

それこそ素直に受け止める余地などなくて

ついつい、つっこみを入れたくなってしまったのでしょう(笑)

それが普通の大人なんだろうな~と思います

でもこうして、

知らないうちに子どもから素直さを奪っています

テレビもCMも世の中のいろんなものは「つっこみ」を入れたくなるモノが多いけれど

子どもにはそんな習慣は要りません

 

そんなことばかりが横行する環境で育ってきた子どもたちに

いくら丁寧に豊かな思考力を

と思っても

だから難しいんだろうなあ、って思うのです

邪念が多すぎる、というか、まっすぐに育ってない、というか…

電気抵抗みたいなのが多すぎる、というか…

 

時々いるんですよ

三角形の内角の和が本当にどんな場合でも180度になるのか、確かめてみたい、と

一緒にあらゆる三角形を書いて、切り取って、みっつの角を合わせて

ほんとだね~!と感激したり

世の中のいろんなことに疑問を持っていて、

Q-noteになんでもかんでも書いて質問してきたり、

なんでガソリンの値段が上下するのか、

なんで選挙の投票率は低いのか、

突然質問してきていくらでも議論したり…

どんぐり問題に出てくる謎の生物をくすくす笑いながら真剣に想像して描写して、

何度も何度も見返しては笑ったり

 

素直に育ったんだなあ、と感心するのです

 

さて上記の本がなぜ「サンタクロースの部屋」というタイトルなのかは

読んでみてくださればわかります

わたしの中の子どもと過ごす上での絶対的なテーマでもあります

みなさんの中にはありますか?サンタクロースの部屋が

わたしの中には相当大きなのがあります

 

塾生さんのご家族にはここで紹介する本や

わたしの参考書を貸し出しする用意があります

いま、リストを作っていますので少々お待ちくださいね

《2014年 3月26日投稿》

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