239.「どんぐり学舎 最初のブログ」最後の投稿

2013年から2018年秋までの

 

「どんぐり学舎」最初のブログを最後まで読んでいただき、

 

本当にありがとうございました

 

 

 

ひとつ前の投稿でご案内した「新しいホームページ」も実は、

 

2020年1月いっぱいで閉鎖になります

2019年5月18日までで引っ越しします

 

 

それまでに、また新しいホームを作って、引っ越さなければなりません

引っ越し先新サイトURLは

https://donguri-gakusha.net

です!

 

それで、どうにかしてこれからも、

 

ひとりよがりのブログをこんな風に、

 

書き続けていきたいな、と考えています

 

 

 

インターネットがなかったら、

 

こうして私の勝手な言い分を

 

会ったことのない誰かに発信することも不可能でした

 

 

 

もちろん、最初は、塾生さんや周囲の、

 

会ったことのある方々に向けて書いていましたが、

 

「読んだよ」とメッセージを送ってくださるかた、

 

「読んでいるのでまた書いてください」と励ましてくださる方が少しずつ増え、

 

私のこのブログへの想いも少しずつ変化してきました

 

 

 

今はただ、

 

色々な想いを抱えてこの世界を生き抜いている人たち、

 

それは、ちいさい人たちや、とりまくおおきい人たちみんなに向けて、

 

できれば、

 

建設的で、前向きな気持ちで、書いていきたいのです

 

 

 

あれもダメ、これもダメ、と悲観すればきりもなく、

 

正直、今の子どもの育つ環境は、勉強面はもちろん、遊びの面でも、

 

あまりにも多くの問題を抱えています

 

 

 

私たち大人にできること、すべきことは、それぞれの立場で違ってはいても、

 

将来、必ず大人になる今の子どもたちの心と体を、

 

どんな風に守り、育てていけるのかは、

 

共通の課題として学び続けなければならないと考えています

 

 

 

20~30年後には彼らがこの世界の中心となり、

 

また、彼らが子育てをしている

 

 

私たちが生きている間になんの変化もなくても、

 

焼け石に水だなんて思わず、いつか生まれてくる私たちの曾孫たちのためにも、

 

その親たちが笑顔であるように

 

その祖父母たちがおおらかであるように

 

 

今できることは、目の前の子どもたちが、幸せな子ども時代を送ること

 

彼らが親となり、祖父母となる時に、

 

子ども時代は幸せだった、と目を細めて空を見上げるように

 

 

 

だから今、

 

思い切り遊ぶ子ども

 

思い切り学ぶ子ども

 

彼らのためにわたしたちは、できるだけの力を発揮すべきだと思うのです

 

 

 

 

これからもどんぐり学舎をよろしくお願いします

 

 

これからもブログを書き続ける場所を探します

 

そして、

 

いつでも私はどんぐり学舎にいます

 

ブログやメールも素敵な手段だけれど、

 

会って話せたら、もっと素敵

 

 

顔を見て、話せる時間を、これからは作れたらなあ、って考えています

 

 

 

5年間このブログを読んでくださって

 

本当にありがとうございました

 

 

 

 

どんぐり学舎

 

D→K Room

 

DSS(どんぐり・しぜん・すくーる)

 

 

 

代表

 

 

泉 聡子

 

(群馬県高崎市在住)

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238.新しいホームページへ引っ越します

新サイトアドレス  こちらです  Please Click!

こちらです(2019.5.18 open)Please Click

 

5年間、

このステキなホームページとブログにお世話になってきました

自分で自分のサイトを「ステキ」なんて言っちゃうのは、

このサイトが、私の作ったものではなく、

幼なじみの天才プログラマーくんが作ってくれたものだからです

 

彼は私には全然わからない世界を自由に泳ぎ回れる人で、

片田舎で密かに営んでいた私の「どんぐり学舎」に

こんな素敵な形で光を当ててくれました

 

看板もなく、広告も出さない私の教室が、

絶対にあり得ないほど遠くの方々にまで、

知っていただくきっかけとなりました

 

市内、県内に限らず、むしろ、県外、中には、国外の、

「どんぐり」やってみたい、

子育てのことで話がしたい、

という、「仲間」が、このサイトのおかげでたくさん集まりました

たくさんの人たちと、つながることができました

 

PCの内部にいつまでも詳しくなれない私が操作できるのは、

ブログの更新のみなので、

ホームページ内容の改訂についてはいつも彼に頼りきりでした

新しいサイトでは、私でも操作できるシステムになっているので、

教室の情報など、更新がこまめにできるかと思います

 

これまでどおり、

メールフォームもありますし、

ブログの更新もしていくつもりです

最近はフェイスブック(ブログよりやや手軽)に文章を書くことが増えてしまって、

ブログの更新が滞っているのですが、

できるだけ議題の提案として、

みんなで「深く考える」きっかけになるよう、書いていきたいです

 

私は、答えなど持っていないし、私が正解でも全然、ありません

糸山先生の足もとにも及ばないできの悪い弟子ですが、

糸山先生を尊敬し、16年間追いかけてきました

追いかけても追いかけても追いつかなくて、

勉強しても勉強してもわからないことは山積みのままなのですが、

なぜだろう、自分の子育てで迷ったことは一度もありません

不安に思ったこともありません

そして、

いま、目の前にいる16歳と12歳の娘たちは、

エネルギー満タンの、キラキラした目をしていて、

やっぱり私なんかが操作しなくてよかった、

育ちたいように育ってもらってよかった、と

心から思えるのです

 

情報が溢れ、不安だらけの子育て環境ですよね

それでも私が不安じゃないのは、

どんぐりを学び続けているからかもしれません

ちょっとかじったくらいじゃわからないんですよ

深く、深く考えて、学び続けるんです

学べば学ぶほど、

子どものことがよくわかるし、

親としてどうしたらよいかもよくわかるはずです

 

子どもの勉強のことや、

親子関係での悩みも、ほとんどありません

習い事もしないので家計にも優しいです(笑)

「でも、なんにもしないのは不安です」とよく相談されます

いいえ、

こんな時代だからこそ、「なんにもしない」ことの素晴らしさが、

「なんにもしない」ことの背景にある親の賢さが、

すべて、子どもに表れてくることでしょう

 

「なんにもしない」のは、本当に「なんにもしない」のではありません

こどもは「なんにもしない」んですけど、

むしろ、この情報社会に押しつぶされないで「なんにもしない」を貫くために、

親は、普通以上に勉強しなくてはなりません

 

そんな暇はないの、生活で手一杯だよ

そういう声もよく届きます

 

それならば、自分の心の奥の方の、「本当の声」を無視せずに、

ちゃんと聞いてみてください

----なんのためにそれをするのか?

 

子どものためですか

子どもの目は輝いていますか

親のためではないですか

もう、誰のためなのかわからなくなってはいませんか

 

心配しなくても、子どもは逞しく、本来はとても優しくて賢いのです

そして、おとうさん、おかあさんのことが大大大好きなんです

 

子育てを頑張る必要なんかないんです

産まれてきてくれた奇跡を、ただただ感謝し続けて、

毎日、元気な笑顔をバロメーターに

 

わからなくなっちゃうほど色々あって押しつぶされそうなら、

ひとつずつ、置いていきましょう

産まれてすぐの、はだかんぼの赤ちゃんの頃みたいに、

胸に乗せて、重みと、体温と、速い鼓動を感じたあの時みたいに、

親に、ならせてもらえたことを

心から感謝して

 

新サイトアドレス こちらです  Please Click!

 

 

 

 

《2018年 11月1日投稿》

 

237.自分で考えさせてよ

中学生が、定期テストの前に学校から配布されている

「テスト範囲表」です

どこの学校もほとんど変わらない内容の、このようなプリントが

テスト期間2週間ほど前に配布されます

 

DKにはいろんな中学校の生徒さんが来ているので、

テスト範囲や学校の進度を把握するために、

「テスト範囲表」が配布されたら

持ってきて見せてもらうことにしています

 

見る度に「おえ~」となるのは私だけ…?

 

26年間、この「テスト範囲表」を見続けてきましたが、

年々、情報量が増えています

どんな情報量か、って…それは、

特に右側の欄の「テスト勉強のアドバイス」です

数学

ワークの問題や授業で使ったプリントは、できるようになるまで何回も取り組みましょう。特に間違えた問題については、できるように復習しておいてください。

国語

授業で配られたプリントやノートの見直しをしましょう。単元テストや文法ドリル、漢字テストなど見直しておきましょう。

理科

教科書を何度も読み、用語や実験した内容をよく整理しておく。ワークや問題を繰り返し解く

社会

教科書やノート、資料集をよく見て、学習したことを自分なりにまとめておきましょう。

ワークや単元テストをよくやり直して、できる問題を増やしていきましょう。

夏休み前の範囲は特に念入りに復習しておきましょう。

英語

教科書の内容を暗唱できるまで繰り返し音読練習をしてください

 

※注※この中学校の範囲表は、手元にたまたま写真が残っていただけで、むしろ、他の中学校のものより記載が少ないかもしれません。特にこの中学校の範囲表に特定して書こうとしているのではありません、悪しからず…

 

毎回、これらの範囲表を見る度に、

最近の天気予報の「余計な一言」を思い浮かべます

「今日はあまり気温が上がらず、最高気温は20℃前後となります。上着を1枚持っておでかけになるとよいでしょう」

「夕方から大気の状態が不安定になり、お帰りの時間帯に傘が必要となるかもしれません。折りたたみ傘をお持ちになるとよいでしょう」

ごめんなさい、きっと、きっと、このお天気お姉さんの一言を頼りに、

朝の身支度を調えて準備なさっている方もいるのだと思います

それでも、

上着を持っていくかどうか、傘を忍ばせていくかどうか、

それに、帰りの時間帯って誰のことなのかわかりませんけれど、

とにかくそういう判断は、自分ですべきなんじゃないかな、と思うのです

 

「上着を持っていくとよい」と何気なく誰かに言われただけで、

実際は気温が上がって上着なんか持っていったら邪魔だったり、

本当に肌寒くて、上着が活躍して助かったり、

そういうのが、「自分の判断」ではなく、誰かの助言だったということが

いちいち私たちの脳の働きに影響している気がしてなりません

なんでも誰かのせいにしたり、

なんでも自分で考えずすぐに手元で検索したり、

そうやって、いつも誰かの判断を仰ぐ現代人たちは、

誰かに言われたから責任は誰かのせいにしていつも苛立っていて、

自分のせいじゃない、ってむかついていて

天気予報のひとこと、に限らず、

エスカレーターや駐車場のエンドレスの自動音声アナウンスなども

なにかと細かな注意書きなども…

些細なことが集まって、いつの間にか、みんな自分の頭で考えるチャンスをなくしてる…

予想最高気温とか、予想最低気温とか、降水確率とか、

そこらへんまででもう、充分なんじゃないかと

県内、市内一律で同じ気温や天気のわけもないし、

それでもまあ、目安にする都市の気温や天気で、

あとはまあ、空を見上げて、空気を吸って、

ん、なんだか雲行きが…

って話じゃだめかなあ

もちろん、天気予報がなによりも重要なお仕事の方は別として

(それでもそういう方ほど、上着を持っていったほうかよいか、

キャスターの言葉に左右はされないでしょうけれど)

話が大きくなりそうなので中学生の話に戻って…

 

とにかく、中学生にも自分で考えさせてほしい

勉強の仕方なんか自分で考えさせてほしい

先生に教わった方法だけが正しい方法じゃないことは、

先生自身も知っているはずです

自分で考え、工夫して、あれこれ試して、時には失敗して、

逆戻りして、あれ~?って考えて…

それでも、もがいてもがいて自分の勉強法を探していく

 

素直な子はこの範囲表に忠実に勉強を進めようとしますが、

書いてあることはごく当たり前のことです

テスト範囲が発表されたら、

その範囲の教科書や問題集、範囲内で行ったプリントなどは

全部解けるようになっていることは当然のことです

繰り返し練習をするのだって普通です

スポーツ選手が、練習を欠かさず、試合前は特に念入りに調整を重ねるのと同じです

何もしないで望んだら、そりゃ、勝てるわけはないのです

…よい点数をとりたいなら、ね

それができればよい点数がとれるでしょうし、やらなければやらないなりの結果なのでしょう

 

それで、ことこまかなこのような範囲表をただ眺めているだけ、

もしくは早々に紛失(カバンのどこかにあるのさ)した数人の生徒、

テスト前日になっても「提出課題」の範囲が終わっていない現実

 

さすがに、提出物は中学校では成績に最もひびくので、

「あのさあ、素朴な疑問なんだけど…」と彼らにインタビュー

「なんでこんなに具体的に提出課題について書いてあるのに、

今の今まで取り組んでこなかったの?」

彼らが口を揃えて言うことには、

「どこから手をつけたらいいかわからん」

にゃるほど…

手ごわいな…

「これをやれ」とページ指定

さらに

「こんな風にやれ」とやり方まで指定

それでも

「どこから手をつけたらいいかわからん」と生徒に言われてる

そんな範囲表とアドバイスの存在感やいかに

さらに、重大なおまけとしてこの範囲表の課題にくっついて提出義務があるのが、

「テスト勉強計画表」というもの

テスト2週間前からの勉強計画、勉強時間、内容をことこまかに記録して提出

目標点を書き、反省を書き、提出が義務づけられます

 

こんなに、なにからなにまで指示して、いちいち反省させて、

それでも、生徒たちの「やる気」は引き出せていない

やる気になってくれないからますます指示を細かくして、よりわかりやすくしようとする

より細かな記載が増えれば増えるほど、

生徒も、わたしも、「おえ~」ってなる

 

でも彼らに言いました、わたしは

「こんなの、ゲームだと思えばいいじゃん。

どうせやらなきゃいけないなら、ひとつずつ攻略していけばいいじゃん。

それでも『どこからやれば…』なんて言い訳して逃げ続けていたら、

一生ゴールにはたどりつけない、そう思わない?」

 

新しい問題集なんか買わなくていい

新しい勉強法なんて知らなくていい

先生の書いていることはごもっとも

普通に学校の授業を活用し、学校の教材をフル活用し、

当たり前のことをすればいい

 

でも大人はこうやって、

子どもたちから自分で考えるチャンスを奪っています

 

どうせひとりではできないだろう、

どうせ指示を出さなきゃやらないだろう、

そう決めつけて

 

できないかもしれない、やらないかもしれない、でも、

こんな風に先回りしてあれやこれや、全員に当てはまらないアドバイスを明文化するくらいなら、

個々にフォローが必要な生徒をつかまえて助言すればいい

自分の勉強の仕方を見つけようとする子には課題が邪魔で、

なにから手をつけたらいいかわからない子には負担が多すぎる

 

小学校の宿題と同じです

 

もっと子どもたちを信じて

もっと子どもたち自身に考えさせて

 

学校だけじゃなく、ご家庭でも

《2018年 10月5日投稿》

236.DSS川遊び 夏休みの終わりに

「いつもの川」での集合は今年も何回か

 

清流を求めて山に入ると、

下界じゃ猛暑なのに、川のそばは比較的過ごしやすい…なんてこともあり、

どうせなら猛暑のまま川に飛び込みたいのにね、なんて言いながらも

クチビルを青くして、なかなか水から出ようとしない、今回の川遊びの日

 

なんだか急に涼しくなって、

いきなりこんな日が来るの?夏は終わるの?なんてささやかれた日

 

お父さんのひとりが水温を測ってくれたら、「18℃」ですって

それって冷たいの?

水に浸かりながら私が尋ねると、

プール授業の有無が水温で決まるらしい小学生は詳しい、

「かなり冷たい!!!」

 

でも、潜ってしまえばなんてことない

流れてしまえば、なんてことない

冷たい水に入ると、体が中から温かくなる気分

みんなでたっぷり遊びましたね

 

長いロープは自然遊びの必需品

川岸の木の幹につないで、歩いて渡れない流れをロープをつたって渡る遊び

流れに足をとられる感覚、

ロープをぎゅっと握ることで自分の体を支える感覚、

腰まである水の流れの中を歩くことは普通できません

でも、ロープをつたっていけば大丈夫

しっかりと足を踏みしめて、しっかりと、ロープは離さずに

 

大きい子はロープを持ってあえて流れてみる

流れに逆らって、川をのぼってみる

ただ淡々と、とうとうと流れているだけの川が、

全く言うことを聞いてくれず、流れを止めてもくれず、

流されたとしても待ってもくれない、という恐怖心

そして、ただ身を任せるだけで、ただ足の角度や、手の差し出し方、体の浮かせ方によって

水の流れへの抵抗感が変わることを実感できます

そして、この場所でのお楽しみは「天然ウォータースライダー」

レジャープールにある、長くくねくねしたスライダーとは比較にならないほど短く、

あっというまなのに、なんともいえない高揚感

どの角度で入るかによって、はねかえる水の量が違うのだ、と子どもたち

(わたし…絶叫中…)

中学生と園児

さすがに冷えてきて、

なんとかして体をあたためようとする子どもたち

砂地に座ると「あったかいよ!」

そうそう、大きな石のある川原で遊ぶ時は、石の上で甲羅干しが一番だけれど、

大きな石がないこの川原では、砂浴びがいいね

いちばんちっちゃなAちゃんも、川に入ってから着替えて、川辺でお母さんと遊んでいました

なにをしているのかな

でもなんといっても、一番あたたまるのは焚き火だよね

前回は、暑くて、暑くて、とても火を起こす気持ちになれませんでしたが、

今回は早速いくつもの焚き火台が稼働!

マシュマロ、連ねすぎ!(笑)

マシュマロなしの、クラッカー焼き!?

なんだ…?煎餅焼き…?いや、すでに、竹串を焼いて楽しんでしまっている…

まだ川の中で、魚捕り名人のお父さんがなにかを生け捕りしています

生け捕りしてくれると、観察ができて嬉しい

でも、川の魚は素速いです

泳いでいると、目の前をたくさんの魚たちが横切るのに…

 

川では思い切り石を投げていいし、

大きな声を出してもいい

全部木々に吸い込まれてちっともうるさくない

みんなと同じ遊びをしなくたって、見えるトコにいてくれたらかまいやしない

また磨製石器づくりかしら…?

 

同じことしてても、みんなそれぞれが違うこと感じてる

ウォータースライダー、も一回行こう!と誘い合う子どもたち

もういいや、寒いから

と断る子もいれば、上がれ、上がれと言ってもちっともやめないムラサキクチビルもいる

 

いいじゃない、みんな違うんだもの

体の大きさも、好きなことも、嫌いなことも、みんな違うんだもの

 

夏休み、思い切り自由に過ごせた子も、そうでもなかった子も、

怒濤の2学期へ

運動会に秋の旅行、修学旅行に音楽会、学芸会?

行事がいっぱいで、毎日忙しそうな小学生

 

毎日こんな川原でリフレッシュできたらね

大人たちも、勝手に自然の中で遊ぶ子らを、ただ見守るだけで過ごせたらね

町で暮らしてる私たち

2学期の子どもたちを、どう見守っていこう

《2018年 8月28日投稿》

235.漢字練習をしてはいけない

16日(月)

長野県の箕輪町で糸山先生のSmart Donglishを受講してきました

DONGLISHの受講は大阪以来でしたが、

その前後からずっと教室で実践しているDONGLISHによる英語理解法、

これから何度でも、できるだけ糸山先生の直接の講座を聞きたいと考えています

今回は英語の話ではなくて、

最後の最後に長野のどんぐりチーム「チーム六文銭」スタッフさんが

設けてくれた質疑応答の時間に、

最初に手を挙げて質問した勇気ある中学生の言葉から、

糸山先生がお答えになった部分について

 

その中学生は

「漢字はどれくらい練習すればよいですか」と質問しました

糸山先生はなんと答えたと思いますか

「漢字は練習なんかしちゃだめ」と

答えました

「漢字練習なんかしたって、思考力はつきません」と

 

もちろん、どんぐり理論には「IF法」という記憶術がありますから、

漢字でも、英単語でも、正しくIF法を実践すれば「覚える」ことはできます

 

ただ、やはり漢字練習はしてはいけない、という言葉の裏側にある、

糸山先生の真意に近いかどうかはわかりませんが、

私は峠を越えて帰宅する長い道のりのなかで、ずっとそのことを考え、

自分なりの理論を見つけ出しました

 

それは、その講座の翌日、自分の教室で中学生と勉強している時でした

数学の計算問題に苦戦している生徒の様子を見ていて、

いつもその子がしている、「似たような問題を見て真似て解く」(類題法)を封印してみました

類題法で解ける子は、似た問題を探すのが早く、それはそれで力だとは思うのですが、

その先、じゃあ、次は自力で解いてみよう、という気持ちになるかどうかに個人差があります

テストの時は類題法は使えないのに、練習で類題ばかり探してどうするのさ、と思うのですが、

いつまでも、例題や類題を探しては真似て解き、

ちっとも自分の頭を使っていない様子に気づいたのです

 

ここの部分はなぜこうなるのか、わかる?などと尋ねると、

結構前の段階から「きちんと」理解していないことがわかったので、

少しさかのぼって、基礎的な部分をしっかりと考えさせてみました

考えている時の子どもは、類題を探し、真似て解いている時とは別人の表情をします

理解できたところで、最初の問題に戻ると、自力で解き始めました

ゆっくり、つっかえつっかえですが、類題を頼ることなく、最後まで解き、正解しました

何にも見ずに、自分で考えて解けた!と嬉しくて、次々と問題に挑戦しました

「まるつけてください!」と自信満々にノートを差し出すも、ミスが多発しているのですが、

その時の表情はいつもの、

「はずれたか~」という(当てずっぽうや真似っこした場合の)表情とは違い、

本当に悔しそうで、「わかっていたのになんでこんなこと書いたんだろう…もう一度解きます!」と

なんだか本当に、別人のよう

 

その後、生徒たちと話していて、見つけたのです

もちろん、ずっと前からわかっていたことだけれど、やっぱりそうなのか、と

その子の顔を見て思ったのです

 

いまさ、その問題を解いている時にさ、自分の脳がガクガクガク~って動いていたの、わかった?

私には聞こえたよ、脳がガクガクガク~って動く音

(ほんとに!?って顔をする生徒)

あのさ、英単語とか、漢字とか、覚えたいでしょ

覚えよう、覚えよう、って努力しても、なかなか覚えられないでしょ、

それってさ、脳が動いてないからかもしれないね

考えようとしていない、っていうか

たとえばさ、重たい岩とか、おもりとか、そういうのを持ち上げたいとするでしょ

持ち上げる練習を毎日、こつこつとすれば持ち上がるようになるかもしれないよね

その場でずっと、さ

でも、他のこといろいろ…たとえば、泳いだり、ボール投げたり、走ったり、登ったり…

いろいろなことしているうちに、筋肉がついて、力持ちになってて、

それから持ち上げてみたら案外ひょいって持ち上がるかもしれないよね

通勤する駅でさ、階段の上り下りが大変だから、って

毎日駅に通って階段昇降の練習をひたすら続けてもさ、

そりゃ、いつかそのおかげで上り下りが楽になるのかもしれないけれど、

それより普段、ウォーキングしたりさ、ハイキング行ったりさ、自転車こいだり、

そんなことして少し鍛えるだけで、階段なんて楽勝!ってなっているかもしれないよね

何かを覚える努力、って、そういうのと似ている気がするなあ

覚えるためだけに力を使う・力をつける、っていうよりも、

力がついていれば覚えることもそう困難ではない、っていうか

それより心配なのは、

覚える努力だけで疲れちゃったり、イヤになっちゃったり、力を使い果たしてしまって、

考えるための力が残っていない、っていう状況で

考える時、脳が動くんだよね、「なんだろう」って「思う」ってことは、

脳が、「なんだろう、だってさ、探せ、探せ、どこかにあるかもよ!」って脳内を探るんだよね

(その時音がするんだよね、ガクガクガクって(笑))

たとえすぐに解決しなくてもさ、脳が、答えを探そうとして動いた軌跡は、残るんだよね

それが、あとでつながっていくんだよ

(うん、実はそれがどんぐりなのだ!…それでもって、12歳までに仕上げたい思考回路なのだ…)

だからさ、

何にも考えないでできる「作業」みたな勉強は、しない方がいいってことなんだ

脳は、「作業」で済むならそれで終わりたいんだ

結構なまけ者なんだよ、脳は

記憶の話でも、したでしょ、一度覚えても、使わない、ってわかると

奥の奥へしまいこんでしまうんだよ、って

だから、自分の脳をそんな風に、なまけ者に育てない方がいい、ってことだ

同じ単語を書くにしても、単語じゃなく英文を書くのさ

漢字もそう、文章を読んだり書いたりするのさ

そうすると「考える」じゃない

考えているときだけ、脳が動いて、軌跡を残す、っていうことを忘れないでね

夏休みの学校の宿題もね、「作業」っぽいの多いみたいだけど、

どうせやるなら、脳を動かしながらやろうよ

考えながらやろうよ

「へ~そうなんだ」「これってなんて読むんだろ」ってね

すぐに答えが出なくても、いいんだよ、考えればいいんだよ

そのうち、答えが知りたくなるんだよ

そしたら聞けばいい、調べればいいんだよ

そんなことをしているうちに、いつの間にか、漢字も英単語も、

覚えることができるようになっているんだ

重りを持ち上げたり、階段をのぼったりするのが楽になるのと同じでね

 

神妙な顔をして聞いていた生徒たちですが、

妙に納得した様子で、

次の質問に答えていた私が書いた英語の例文を見て早速質問するのでした

 

My mother  isn't  in the room,

私の母は  ない  その部屋の中に

(母はその部屋にはいません)

 

「じゃあ、どこにいるんですか!?」

 

…そこ???(笑)

 

漢字練習をしてはいけない

小学生はなおさら…ね…

《2018年 7月20日投稿》

234.「わからない」を楽しむ

条々

一、諸国百姓、過多な、脇指、弓、やり、てっはう其外武具のたぐい、所持候事、堅く御停止候。

 

某中学校の中2の歴史の期末テストに、

秀吉の刀狩令の穴埋め問題が出題されました

てっはう(鉄砲)の部分が空欄で、適語を書き入れなさい、という

 

中学生の定期テストが終わると、DKRoomでは、「一次データ」のチェック、として、

問題と答案を見せてもらって、私なりに分析しています

点数はあまり気にしないのですが、その子がどのようにテスト前過ごしていて、

どのような問題にどのような答え方ができたか、またはできなかったか、ということを

分析しています

その後、Qノート(わからん帳)収録作業にかかるわけですが、

とにかく最初に答案を見せてくれる時の生徒たちの表情は、

次のテストまで冷凍保存しておきたいくらいフレッシュな悲喜こもごも

私がなにかしてやれることはないけれど、

今のその気持ちをちゃんと次に生かせるように、ノートは作っておこうね

そう話して、答案を返却するのです

一番大事なのは、その「悔しさ」

…たぶん、一生懸命準備して臨めば臨むほど、悔しいはず

あまり悔しがっていないとしたら、それは、本気で立ち向かっていないのだろうな

例によって、テスト予想問題などは作らないし、学校からの課題でめいっぱいなので、

とにかくその課題をなんとかしてから、鍛えておきたい部分、

不安な部分があれば私に要望するように、

とテスト前は構えて様子を見ています

四半世紀も塾の仕事をしていると、事前に配布されるテスト範囲表を見れば、

予想問題や、必ず出題される問題など、頭に描けますが、

それを生徒たちに最初から伝えることが

彼らの力をつけることと相反することであることは承知しています

「予想問題あります!」「的中してこんな高得点をとらせました!」

という塾の広告や看板をみるたびに、

そういう商法なのねえ、まあ、企業だから仕方ないんだけどねえ…と同業者ながら、

全く別の世界のように感じます

とはいえ、「テスト前だって特に勉強しなくていい」とは私は思いません

学校の先生からの出題範囲表と提出物期限は、

君たちへの挑戦状だぞ、と

どうせなら果敢に立ち向かって、堂々と挑んでいこうよ、って

それは、「よい点数をとるため」の努力ではなく、

これから先の人生、…高校入試などの大きな試験や、その他、

自分の前に課題が積まれた場合の、

自分の切り抜け方を模索するための、大切な練習期間だと話すのです

 

それでも、

私の前では「そうだ!よっし、やるぞおお!!」って目を輝かせていたはずの子が、

家に帰ると急にしょぼぼ~んとやる気をなくしてしまって、

あれよあれよとテスト期間に突入し、答案分析では「完全なる準備不足だわ…」

となる場合もあります

…っていうか、テスト前どころか、授業で習った時点で最初からわかっていなかったんじゃん!?

って、ばれてしまうこともあります

それで、とんでもない点数や、順位表がばーん!と出されて、

それをみた親御さんは…落ち込んだり、ショックで寝込んだり…(とまではいかないか…?)

テストの点数と、そのデータが、数値化されて、相対評価されて、

まるで、その子自身の値段をつけられて、価値を決めつけられて、

好ましくない成績の場合は、その子は「出来が悪い」と太鼓判を押されたような…

そんな錯覚に陥り、子どもを責めたり、自分を責めたり、

右往左往してしまうかもしれません

 

いやいや、

どこで目覚めるかはその子それぞれ

中学校のテストで人生が決まるわけではありません

人生が決まるとしたら、

そのようなテストの成績によって、親に人格否定されてしまうような、

そんな悲しい事実でしょう

そんなきっかけで、自分には価値がない、と子どもが親からの暗示で思いこみ、

いつか社会の荒波にもまれた時に、自分自身を見失うことになりかねません

 

わが子をそんな苦しみの渦の中へ、

追いやりたい親はいないはずです

 

「家に帰るとしょぼぼ~ん」の原因は、どこかにあるはずなんです

ただ単に、話を聞いて理解することはできても、

ワークブックや教科書の文面から生き生きと読み取ることが困難な子もいます

今、私が音読したりおしゃべりしたりしてそれをいつでも見聞できるような、

塾生だけでもそれを見て独学できるような、そんなものを作れないかしら…と

本気で考えていますが、

今、流行の動画学習とやらも、いかにも役立ちそうで実は脳にはしみこまない、と

先日ある脳科学者の講演を聴いて、確かに…と思う部分もあり…

(ほら、スマホで検索したことってすぐに忘れるけど、試行錯誤したり、

みんなで本で調べたりしたことは忘れない、みたいな)

 

それで、DKでは、教室に来ている間は、できるだけ、議論したり、試行錯誤したり、

そんな風に時間を過ごしているのです

 

それで、刀狩令に戻ります

その子は、その空欄に入るのが「鉄砲」なんじゃないかな、と漠然と思ったものの、

現代の銃の保持率を思い出したり、当時の百姓と銃、という絵が浮かばなかったりして、

躊躇して、別の言葉を入れてしまったのでした

 

そこで、その子が進化し続ける脳を持つ子である特徴として、

「本当に鉄砲を持っていたんでしょうか」と私に尋ねてきたところです

確かに、

豊臣時代の百姓が、どれだけ銃を持っていたのか…私にもイメージはわきません

ただ、ポルトガル人が種子島に持ってきた鉄砲は、その後も南蛮貿易で輸入され、

日本の鍛冶屋さんも作れるようになり、どんどん普及していくのですが…

そこまでは歴史の専門家でもない私にわかる限界でした

でも、そこからさき、「百姓の銃の所持率」については、

どんな資料集にも載っていないのです

新美南吉の『ごんぎつね』では、兵十は最後、ごんを火縄銃で撃ちます

…兵十は確か百姓です

でも、銃を持っているのですね

あの物語の時代設定はいつなのだろう…

挿絵ではちょんまげしてるし…お歯黒とか出てくるから、江戸かなあ…

居合わせた生徒たちと話しますが、みんなわかりません

 

ここからが、私の宿題になります

インターネットや、書籍で、調べるだけ調べ、その後、中学生向けの解説を書き、

翌週に渡します

私への宿題は毎週課されます

 

実は、刀狩以降も百姓は、鉄砲を農具として所持していたそうです

特に、17世紀後半からは農機具が開発され、農耕地も拡大され、

そこから問題になってきたのが、

害獣駆除、だったのです

そう、百姓にとって農作物を荒らす野生生物たちは、鉄砲でやっつける対象でした

それが、百姓にとって鉄砲が農機具だったと言われる所以です

今とちがって、鉄砲を所持するのは簡単なことでした

ある村の記録が残っていて、283戸の中で82挺もの鉄砲が

結構な割合です

江戸時代には、武士より百姓の方が鉄砲を所持していたと言われているそうです

武士の鉄砲は城内で保管されていますから、簡単には持ち出せません

百姓は農具として家の中に置いていたわけです

ただ、19世紀までは

「鉄砲相互不使用原則」というものが、しっかりと守られていて、

武士も、百姓も、決して相手に鉄砲を向けなかったそうです

どんなに重い年貢を課され、生きていくのもやっと、という状態になって、

ついに一揆を起こす時も、決して鉄砲は人にむけなかったそう

…19世紀までは…

 

ハンターさんが銃を所持するために受験する試験のためのテキストには、

日本で銃が普及していない理由は、秀吉の刀狩令のおかげです、

というような記述があったそうですが、

実は、それは間違った常識のようです

だって、その後、少なくとも江戸時代には、

3戸に1挺くらいの割合で百姓の村に鉄砲があったのですから

それじゃあ、今のように、勝手に銃を保持しなくなった、

それどころか、無許可で持ってるだけで犯罪、ってなったのはいつ…?

ここからは私の好奇心でした

なんと、銃に関する法律が整ってきたのは第二次世界大戦以降だそうで

1965年に銃砲刀剣類所持等取締法ができ、それを改正しながら現在に至る…と

それでも、時々起こる、銃を人に向ける恐ろしい事件を知ると、

銃を農具として所持していた百姓が、

どんなに苦しくても決して人には向けなかった、という時代の人々のことを、考えてしまいそうです

 

私は全科目サポートしていますが、

全科目それぞれの、専門家と比べたら知識量はとても少ないと思います

だから、私が生徒たちに何か「教えて」あげられるとは思っていません

私はただ、生徒たちと一緒に考えたり、

こうして、離れている間にも、彼らならこれをどう考えるだろう、と何か提案することを考えたり、

生徒からの質問を持ち帰ってできるかぎり調べてみて、

それを次の回で話し合ったり

そんなことくらいしかできないのですが

 

私が子どもの頃、この役目は父がしていました

夕食の後、私がなにか質問すると、父はすぐに地図や百科事典を食卓に広げ、

調べて、読み上げながら、ああでもない、こうでもない、と話してくれました

父はそもそも博識で、雑学王!と子どもながらに尊敬していましたが、

たぶん、私が受け継いだ部分は「調べてみたい」という好奇心や意欲だと思うのです

そして、実際に私が子どものころは、目の前で調べる姿を見て、

どうやらあの分厚い本に大事なことがたくさん書かれているようだ、と知ることになります

重くて子どもには持てないくらいの百科事典ですが、

持てる年齢になるとしょっちゅうひとりで引いては読んで、

周辺の関係のない項目を読んだり、挿絵だけ追って読んだりして遊んでいました

 

たぶん、スマホで調べたことが定着せず、辞書で調べたことが定着するということではなく、

議論すること、またはひとりで調べているにしても、その脈絡や歴史まで追究して調べ尽くすこと、

そういう「姿勢」がキーなのだと思います

 

子どもに何か質問されて、それをスマホで調べたとしても、

子どもが積極的に調べたがる子になるようにするには、

スマホの画面を見せたり、タブレットを渡したり、そう安易にするのではなく、

…せめて、少し演出を加えたらいいと思います

たぶん、スマホで調べても、「お父さん(お母さん)すごい!」と思う子どもはいません

でも、百科事典と辞書を並べてあーだこーだ説明してくれる父を、私は、

すごい!って思いました

あんなに重い本で、あんなに小さな文字なのに!!って(笑)

 

前述の生徒は、言葉の意味がわからない、くらいのことは自分で国語辞典で調べていますが、

それ以上の「わからない」になると私に投げかけてくるのです

もっと知りたい、ちゃんとわかりたい、という気持ちが、いつも研ぎ澄まされている感じです

 

私は毎週、宿題を、うきうきしながら書斎に持ち帰ります

わからないから勉強する

わからないことを前向きにとらえることができれば、

その子は確実に、伸びます

 

私が毎年「わからない」からなんとかしたいな~と思う1番の大きな宿題は、

「わからない」を楽しめず、逃げてしまう生徒をどうするか、ということです

私は決してあきらめない

だから、あきらめないでほしいな

生徒さん本人はもちろん、

親御さんたちにも

《2018年 7月3日投稿》

233.谷川岳を見上げる道を歩く

梅雨に入ってすぐ、

突然思い立ってDSSでハイキングへ

DSS=どんぐり・しぜん・すくーる

どんぐり学舎の自然遊び部門です

 

突然だったので、参加者はとってもコンパクト

うん、でも、ちょうどよい!

みんなの顔が見えて、同じペースで歩けました

 

JR高崎駅に集合して、上越線で「土合駅」まで1時間ほど

途中、「水上駅」で乗り換えです

Suicaも便利だけど、券売機で切符を買う経験もさせましょう!…なんて告知に書いておいて、

我が家は子どもたちも小さくないのと、電車旅が少なくないのとで、

Suicaで高崎駅から乗車したら…

なんと、水上より先はSuicaが使えないエリアなのでした!

…そうだそうだ、以前、新幹線の越後湯沢までのことを調べていたら、

越後湯沢でさえ使えないということにびっくりしたことを忘れていました

車内で車掌さんに精算してもらいました

みなさんはお気をつけて

次は切符を買っていこう…

 

電車内では「絵しりとり」をしていきました

往路はほぼ貸し切り車両でしたね

※これは答え合わせ後の絵です

 絵しりとりは教室でも時々しているのですが、何の絵を描いたのか声に出してはいけないルール

 大人も混じったので、画伯だらけの楽しいしりとりでした…(笑)

 

水上駅で乗り換えて、土合駅に到着しました

上越線の土合駅は、「日本一のモグラ駅」と言われています

群馬と新潟の県境の山岳地帯を「新清水トンネル」を通って通過するため、

トンネル内にある地中深い駅なのです

何百段もの階段をのぼって、ようやく改札口までたどりつくのです

子どもたちの後ろに階段が見えますか

何段あるかは、現地で確かめてみてください

ぎょええええ~とのけぞっている大人を置いて、

子どもたちはダッシュで駆け上っていきました

途中でバテているだろうと思ったら、改札口前でにこにこで待っています「遅い~!」

子どもに負けじと追いかけたお父さんもいましたよ

頼もしい!

そうですよ、ここからが山歩きなんですから

エスカレーターを作る予定もあったそうですが、

なになに、この駅は登山者のための駅のようなもの

昔からここで足慣らしをして、登山に向かっていったのです

きっと、これからもエスカレーターは作られないでしょう

ちなみに、土合駅は現在、完全なる無人駅となっています

駅員さんはいないし、改札も切符回収箱が置いてあるだけ

売店はおろか、券売機もありません

昔はもうちょっとひとけがあったような…

観光客も車で立ち寄るような、こんなにおもしろい駅なのに、不思議です

 

さて、土合駅を出たら、少しの間、舗装された国道291号線を歩きます

天気予報は雨でしたが、

まだ大丈夫みたい

しっとりと冷たい空気で、階段をのぼる前は寒いくらいだったけれど、

階段のおかげでほかほかです…

 

少し歩いて、目的のコースに入る少し前、「湯吹きの滝」がみんなを出迎えます

湯桧曽川にかかる土合橋から見下ろすのですが、

写真では伝わらないほど深い…つまり、橋が高いところにあります

子どもたちはぴょん!と欄干にしがみついて下を覗きますが、

それが怖いのなんの…

大人たちは必死でおさえていました

でも、いつまでも眺めていられる絶景

 

先月、「鉄砲水」があったようで、

湯桧曽川の流れは前回プライベートで来た時とは違っていました

最初に渡る橋は水没していて、

欄干の上を歩きます

ここからは、車の進入は禁止されています

橋の上の石の堆積具合からして、この橋が水没したのはもう随分前のようです

 

今回の「一の倉沢岩壁トレッキングコース 新道」は、

「旧道」と違ってずっとこんな風な道です

湯桧曽川に沿った平坦な道ですが、舗装されていないので

時々、こうして湧き水が作った小川が道を横切っています

鉄砲水の恐れがある時は閉鎖される道です

 

大木が真ん中で折れて、道をふさいでいました

「ここが入場ゲートだよ、チケットを出してね」なんて冗談をいいながら、通過

(帰り道では「退場ゲートだね」と子どもたち よく覚えている!)

途中の川に橋がかかっていましたが、岩の上に置いてあるだけ

鎖で固定されていましたが、それは、川が溢れて流れてもどこかへ行ってしまわないように

私が子どもの頃にはこの橋はありませんでした

岩の上をわたったか、靴を脱いで川を歩いたか…

一生分の深呼吸をしたいくらい、新鮮でおいしい空気の降り注ぐ中、

「新道」から「旧道」に向かう連絡道を上ります

平坦な新道ですが、

連絡道はところどころにロープがかけてあるような急な岩場もあります

 

新道の途中に、廃墟が…

ここは、「マチガ沢キャンプ場」跡地です

かつて、私が何度も訪れたキャンプ場です

小学校低学年から、中学生になるまで

体重の半分近い重さのリュックを背負い、

高崎駅から電車に乗り、土合駅の階段も登り、新道を歩き、連絡道を登り、

何度も、何度も訪れた場所です

 

親なしの、子どもと若者ばかりの大所帯でしたが、

今ではテントサイトも少し残っているだけ

おそらく、斜面が崩れて、当時ほどの広さを維持していません

それでも、久々にここを訪れた時には、何とも言えない感情がわき起こりました

設備の整っていない、自然に近いキャンプ場

3泊4日、もちろんお風呂にも入らないし、シャワーなんかあるわけないし、

食事も全部、自分たちで作るので、保存状態も毎年失敗して勉強…

腐りかけても食べるしかない…翌年までそれをしっかり覚えておいて、年々改善していきました

キャンプとはこういうもの。

幼かった私は、中堅のリーダーになるまで参加し続け、

言葉にできない様々なことをこのキャンプで学びました

親子でキャンプしたのでは絶対に味わえない、危険もたくさん

そして、「当日いきなり参加」ではなく、

何ヶ月も前から子どもたち主体で勉強と準備と練習をする、

それをうまく導く若者たちがいる、素晴らしい組織に属していたのでした

廃墟となると、

とたんになんとなく恐怖の館みたいになってしまったトイレ棟や炊事場の跡地ですが、

なんとかあのような経験を、この子たちにもさせられないものかと考えながら通過

そうそう、蜘蛛やナメクジ、毛虫もやたら巨大でね…

どん!

いやー、

慣れですよ、慣れ

アリも大きくてね、噛まれると痛いし、

テントに蚊が入って翌朝出てきたら「だ、誰?」みたいに顔が腫れている子とかいましたけど、

体なんか虫の何百倍も大きくて、手足も頭脳も自由自在な人間のくせに、

こんな生き物にビビるんですから、自分たちの弱さも思い知るわけです

教室に舞い込んだ無害で小さな蛾やユスリカにビビっているようでは、

いかんよ…と毎晩思うわけです

 

ここで勘違いポイントを説明すると、

「新道」といっても、昔からあるコースであり、

「旧道」というのは、国道291号線のことを指すわけです

だから、

「新道」が無舗装で「旧道」がアスファルトで舗装された自動車道(現在は通年マイカー規制)

なのです

「旧道」には谷川岳ロープウェイの駅もあるし、

山岳指導センターなど、本格的な登山をする方が登山計画書を提出する場所などもあります

「新道」はそこまで行かずに、土合駅からすぐのところを入っていきます

舗装された道路の「旧道」はトレッキングコースとしては「新道」より人気で、

車椅子の方や、ベビーカーとでも一緒に歩くことができるし、普段着でも大丈夫です

「新道」も別に、普段着でも大丈夫ですが、舗装されていないのと、木々の間を抜ける道なので、

夏でも長ズボンの方がいいと思います

帽子や長袖もね

 

さて、連絡道斜面の途中にあるキャンプ場跡地を通り抜けると、「旧道」に合流します

連絡道はもう少し先にもあるので、次回はそこまで歩く予定です

今回は短いコースを選択しました

舗装された旧道を歩いていくと、目的地の一の倉沢に到着です

雪渓が見えますか?

あー、これから子どもたちと行こうと思っている人はこの写真は見せないでくださいね~

次回参加予定の方もそうしてください

大人でも、初めて目にした方は「…えっ…???」と目を疑うような光景です

 

しかも、雪渓に乗れます(笑)

何メートルあるか?という塊ですが、

雪は雪なので、上に乗る際は自己責任でお願いします

割れ目から雪渓の下に落ちてしまう事故もあるようです…

雪渓の上部では、スキーをする人もいるんです!!

その下を、もちろん、川が流れているのですが…その水ったら…

つつつ、つめたーーーーい!!!

そうなんです

透き通った、とっても美しいせせらぎですが、

この水が合流する湯桧曽川なんか真夏だって氷水みたいで泳ぐことはもちろん、

足をつけておくのも困難です

魚も…見あたりません

冷たすぎるからなのかなあ…

 

「旧道」では500円のガイド料を払うと乗せてもらえる電気自動車が往復しています

足の不自由な方や、ご年配の方でも、その車に乗れば一の倉沢まで来られますよ

 

ガイドさんがちょうど電気自動車でやってきて、

集合写真を撮ってくれました

天気がいいと、上の尾根から続く雪渓が見られますが、

雲が下りてきていて残念!

本格的な谷川登山というのは、この雪渓のはるか上部の、

尾根を歩くコースです

そして、岩壁で有名な一の倉沢は、昔からロッククライミングの人気スポットのようです

 

小雨が降ってきました

そして、寒い~!!冷気が襲ってきました

持ってきたお弁当を急いで食べて、下山です!

 

帰りも「新道」がいい!と子どもたちが決めて、舗装されていない新道を下りました

木々が茂っていて、雨は気になりませんでした

 

要注意は、土合駅からの列車の本数の少なさ…

数時間に一本しかありません

暑かったら、涼しい一の倉沢でもっと遊ぶ予定だったので、

早々に下山してしまった今回は土合駅でだいぶ時間を潰さなくてはならなくなりました

 

でも、子どもたちは楽しそうに集団遊びをして過ごしていましたよ

 

モグラ駅ですが、上りホームは地上にあります

これもトリビア(笑)

みんな「あの階段を下りるのか~」と覚悟していたようですが、

拍子抜けしたようです

 

次回は、真夏に企画します

できればものすごーーく暑くなりそうな日に!

雪渓がどこまで残っているか、確かめに行きましょう!

《2018年 6月18日投稿》

232.sense of wonderと理解力

昔から手放せないこの本、 これについては何度かこのブログでも書いてきたけれど…

2013年の投稿はこちら

子どもたちと山を歩いて、 庭で鶏を眺めて、 そして、

生徒からの質問の、数学の解説を書いている今、

勉強も、みんな、同じ、センスオブワンダーだよねえ…とあらためて思うのです

 

あれ、なんでだろ、って思うこと

説明を聞いて、読んで、ああ、そうか!って思うこと

ただ言われた通りに真似て解くだけじゃなく、

自分の頭の中で、納得するまで考えること

それをしていない場合、 本当に、理解するのは難しいと思うのです

 

いいからこのように解きなさい、と手本を見せられ、 真似て正解してマルをもらう

テストの前にテストに似た問題を教わり、 正解してマルをもらう

そんなことの繰り返しで、すっかりセンスオブワンダーを失った子どもたちは、

次も手本を見せてもらうのをただ待っている

しかも、学ぶことに興味はない

だって、ワンダーがないのだもの

なんでだろう、ってたっぷり思う暇がないんだもの

試行錯誤する暇も

 

学校の授業では、先生も工夫してくださっていて、

新しい単元に入った時にはあれこれと子どもたちと意見交換してくれる先生もいるようです

どのように考えたらよいか、教科書の例以外でも、何か思いつくことがあるかどうか、

問われることもあるようです

 

それでも現場の先生に聞くと、

前のめりで考える子と、そうでない子とくっきり分かれていて、

先生が話し始めると反射のようにあさっての方向を向く子や、

意識が飛んで果てしなくぼーっとする子が増えている…と

 

それは私も感じていて、

四半世紀この仕事をしていると、季節ごとに教室の子どもたちに話す定番の話なんかがあって、

毎年、楽しみにそんな話を出してみるのですが、

「あ、雑談が始まった」とばかりに意識を飛ばし、手悪さが始まり、

それでも聞いているならまだよいのですが、

全く最初から関心がない、という明らかな態度の子が、 年々増えているのは事実です

守ってもらいたい約束事の話などをしている時も同様です

ただ、「話を聞いて、考える」という、それだけのことが、できないような

逆に、私の目を見て、私の手の動きを見て、表情豊かに反応し、一生懸命理解しようとしている子も

 

こんな小さな教室でそうなのだから、学校の教室や如何に…

 

誰が何を話そうが、心を動かそうとしない

感じ取ろうとしない

センセーショナルな演出を加えれば、ともすると子どもたちの関心を一気に集めることが

できるのかもしれません

だから、実験教室とか、動画学習とか、そんなのが流行するのでしょう

でも、どうするのでしょう

世の中常に、サービス満点の、読み手を揺さぶるようなアクティブな刺激ばかりではありません

ただの文章だったり、 ただの書類だったり、 ただの計算式だったり、 ただの講話だったり、

何を読み取ればよいのか、誰も教えてくれない状態で、 読み取らなければならないのです

テレビや動画の見過ぎで、人の話なんか、刺激がなさすぎるのでしょう

 

 

木村さんの家から学校までの道のりは3.6㎞、学校から駅までの道のりは3.36㎞です。ある日、木村さんは7時15分に家を出て7時35分に学校につきました。その後15時34分に学校を出て15時50分に駅に着きました。木村さんは、家から学校までと学校から家までそれぞれ分速何mで移動しましたか。

(ちびむすドリルより)

 

これはごく一般的な算数の文章問題です

 

どんぐり問題をやっていると、こんな親切な文章問題はとっても簡単な問題に感じると思います

でも、このような文章問題を「難しい」と感じるとしたら、

それは、 やはり、読み取れないから

読み取ろうとしないから

いいえ、本人は一生懸命読み取ろうと努力しても、

脳があきらめてしまう

そんな子も何人も見てきました

 

ただ、その場面を思い浮かべればいい

往路と復路で距離が違うこと、 そして往路でかかった時間、復路でかかった時間も違うこと、

そして、問われているのは分速何m、という単位であること

ひとつひとつ読み取っていき、整理して計算していけば、 全く難しい問題ではありません

でも、ひとの話を最初から「意識を飛ばして」聞く耳を持たない脳は、

このような問題を読んでも読み取ろうとしてくれません

その子自身がいくら考えようとしていたとしても、 脳があきらめる方がたぶん、早いのです

「わかんない」という言葉が反射的に出てきて、

もう、その言葉が出てきたら、本当に、脳にはブレーキがかかります

 

無理矢理似たような問題を何問も解かせ、説明して、はい、同じように解いて、と言えば、

解ける子もいるでしょう

でも、ずっと付き添って、そのように導くことはできないし、

第一、根本解決にはなりません

結局、 テストの時はひとり、 入試の時はひとりなのですから

 

ただ、感覚が育っていないために脳が思考停止するしかない子どもを、

大抵の大人は責め立てます

「努力が足りない」

「やればできる」

そうじゃないんです

もう、そのような脳に育ってしまった

育ててしまった

だから、本人の努力不足とは違うんです

中学生になって、急に、成績が数値化されて、

突然「子どものせいにする」親たちが急増しますが、

声を大にして、言いたい

悪いのは、子どもじゃない!!

(あ、だから、子どもを責めないで。成績に、一喜一憂しないでね。

ありのままのその子を、愛してね、ってことです)

 

難しいことではないんです

これから子育てをする人なら簡単なこと

もう子育てが始まっている人も、今日から意識すればよいこと

 

センスオブワンダーを育てよう

 

大自然の中で全部を味わって歩こう

大騒ぎするんじゃなく、自然を妨害せず、ただ、お邪魔しまーす、という気持ちを持って

 

それが無理なら

近所を散歩しよう

 

それも無理なら

家で生き物を育てよう

 

それが無理なら

小さな植木鉢に、種を蒔こう

ベランダでいいから

窓際でいいから

毎日、水をあげたり、日に当てたりして、世話を一緒にしよう

それならできるはず

 

動画を見せてもダメなんです

バーチャルペットでもダメなんです

自然が教えてくれるのは、 温度、感触、におい、そして、体を震わせるほどの、心の動き

キャンプが流行していて、

自然体験も流行していて、

週末には群馬の大自然に向かう道路が都会の車で渋滞するほど

でも、車の中ではビデオを見せている

親は大自然のベンチに座ってスマホを操作している

なんならキャンプ場でも子どもたちはゲームをしている

自然が気持ちいいから、と排気ガスをまき散らし、ゴミを捨てながら

 

そんなことをするくらいなら、家で植木鉢に種を蒔けばいい

 

すでに、発芽くらいでは心が動かなくなってしまっている大人の方は、

いま、その状態で子育てするのはとっても危険だと自覚したほうがいいです

 

不安だからってあれこれ取り入れなくていい

 

ただ、子どもと一緒に味わうだけで、子どもは賢く心豊かに育ちます

ただ風のにおいを、

ただ葉の動きを、雲の流れを、

川のせせらぎを、海の波打ち際を、山道のたくさんの植物や生物を、

感じ取るだけ

 

特別な準備など、要りません

ただそこへ一緒に行き、ゆっくり過ごすだけ

子どもの目に映るものを、一緒に自分の目にも映すだけ

子どもが何か言うでしょう

ただそれを、受けとめるだけ

イベントじゃなくていい

むしろイベントじゃないほうがいい

(あ、DSSイベントは基本、何にもしません

ただ、大自然に遊んでもらいます

自然の中で大騒ぎするのが、あまり好きではない主催者でして

ただ、現地の動植物を大切に扱ってほしいな、という願いだけは伝えて…)

 

もし学校の授業を素直に聞き、理解しようと当たり前に努力し、

文章を読んで一生懸命考えるような子に育てたければ

 

人の話を聞き、文を読み理解しようとする、その感覚を育てたければ

 

道具を買いそろえてキャンプや登山をしなくてもいい

ただ山の近くに行って

ただ海の近くに行って

ただ風に吹かれてみて

ただしゃがんで砂や草を見てみて

子どもと一緒に

 

それがセンスオブワンダー

答えなんか探さなくていいんです

 

大人がそのsenseを磨くことで、子どもは今よりもっと、

幸せになります

だって、子どもだって自然の一部

どんな目をしてる

どんな声をしてる

今日、あなたに何を伝えたがっている?


《2018年 6月13日投稿》

231.YouTubeばかり見ていてもユーチューバーにはなれない

とある小学校で、

消防署に見学に行った時、

消防士さんが「将来、消防士になりたい人!」と聞いたら

し~ん

「それじゃあ、何になりたいの?」と聞いてみたら、

ほとんどの子が

「ユーチューバーになりたい。」と答えたそうです

 

小学生同士の話題も、「ユーチューブ」というワードの出てくること、出てくること

「まだ見てないの?」「今日、見てみるね」

夕べのテレビ番組!というのと違い、いつでも、同じものを見ることができる、

そんな共有の仕方があるそうで、とにかく、子どもたちの周辺の会話には

よく出てくるアイテムのようです

 

スマホやタブレット、ゲーム機を寝室に持ち込み、

夜更けまでユーチューブを見ていて学校で寝不足を訴える子も少なくないとか

そこまで夢中にさせる魅力ってなんだろう

 

大人や大人に近い子たちが好きなチャンネルはさておき、

小学生が見ている動画ってどんなものだろう?

私は全然、知らなかったので、情報を仕入れてからちょっとのぞきに行くと…

なんだろう、

ただ、「なにかしている」動画

ただゲームをしている

ただ外で遊んでいる

ただ実験している

字幕が出て、音楽がかかって、効果音が鳴って、

まるでテレビのバラエティ番組を見ているようで、

でも、テレビより制約がなく、自由度が高いせいか、

勝手気ままな雰囲気と、クオリティの高低差もすごい

なにより、わたし個人的に見て思ったのは、

テレビに出ている人の顔や声の美しさ、魅力ってすごいんだな、ということ

長い時間、その人が喋ったり、何かしたりしているのを見ていられるのは、

動画にたえうるルックスがあるせいなんだな、と、

YouTube動画は途中で、見ているだけで疲れてきました

長くは見ていられません(おばさんだからかな)

 

そして、これのどこが、小学生をひきつけるのかな…考えてみました

 

実業家の堀江貴文氏が、プロ野球団やテレビ局も買える、とテレビで話していた当時、

近い将来、インターネットは、誰でもテレビ番組を作れるツールになる、

と言っていたのを思い出します

自分で撮影した動画を、インターネットで配信して、ある程度視聴者がついて、

それに広告主がお金を払うだろう、と

司会のタレントは「想像もつかない」と遠い目をして反応していたし、

聞いている私も信じがたかったけれど、

実際、まさに、今の時代にその通りになっています

 

かつて、「ハンディカム」という8ミリビデオカメラが大流行した時、

学生時代、やっとのことで入手したそのカメラで、

(スキーのフォームチェックのためという大義名分…)

私はよく、「何気ない光景」を録画しては、あとで被写体みんなで見て楽しんでいました

たとえば、友達の部屋でカードゲームをしている光景、

飲み会をしている光景、ものまね大会をしている光景、

ドライブしているところ、高原でお弁当を食べているところ…

色々な観光地でジャンプした瞬間止めて、次の場所で着地するところから撮影すると、

瞬間移動したような映像が撮れたり…

字幕を入れられる機能があったので、時々それを使ったり…

(当時の私の友人たちは、うんうん!と苦笑しながら思い出していることでしょう)(笑)

 

今や、ハンディカムは見かけないけれど、

ほとんどの人が手元に写真、動画を撮影できる端末を持っている時代ですから、

そんなことは誰でもできるのですが、

当時はあまりそんなことをしている人はいなくて、

でも、

誰か他の人に見せる目的なんかなくて、

ただ、私が録画して、時には固定して自分も映りこみ、

それを、後日そのメンバーでただ見るだけ

今ならそれを、SNSにでもアップして、または、

世界中に発信するサイトにアップして楽しむのでしょうか

 

自分たちで見れば確かに面白いのですが、

他人に見せるのはこっぱずかしいし、当事者以外が見て何が楽しいのだろ、と思うので、

(ほらほら、よく、よその家の子どもの成長のビデオを見せられる苦痛とか言われている…)

今の流行にはいまいち共感できないのですが、

ああ、そうか、と思ったことがひとつ

 

一緒に遊んでいるつもりになれるのか、と

 

やっぱり、子どもたちは遊びたいんだ、って

誰かと一緒に遊びたいんだな、って

それが、なかなかできなくて、

動画を見て、楽しんで、まるで自分も一緒に遊んでいるような気持ちになって、

それで満たそうとしているのかな、って

それだから、芸能人である必要はなくて…

 

わたし自身、楽しみ方がわからないのでいい加減な分析なのかもしれませんが、

もしかして、この方の言っていることなら

小学生や、その周辺の人たちへの説得力はあるのかな

 

スマホは中学生まで持たなくていいと思います。

ゲームや動画で満足して、遊び方がわからなくなりそう。

僕はめっちゃ外で遊びました。

ガラケーを持ったのは高校で、スマホは大学に入ってから。それくらいでいいと思います。

子どもの時に体を動かして、モノを作ったり、足を運んだりする経験が大事です。

SNSでは、嫌な情報を公開されるリスクもあります。

情報を開示した責任は自分にあって、一度出た情報は取り消せないので、

出てから後悔しても遅い。未然に防ぐしかないです。

その意味で、SNSは危険いっぱいの代物です。危険性を理解した上で使うのが大事です。

(ユーチューバー はじめしゃちょーさんのインタビュー記事より)

こちらが全文

 

ゲームもテレビも、スマホアプリも、動画サイトも、インターネットそのものも、

それらの開発者さんは最初から、

小さな子どもたちの生活リズムを乱してやろうなんて、

昼夜逆転の不登校児を増やしてやろうなんて、

視力を悪くして眼鏡屋さんと一緒に一儲けしようなんて、

子どもの情緒を不安定にさせてキレる子を増やそうなんて、

勉強嫌いの子を増やそうなんて、

望んでいるはずはありません

 

開発者さんたちや、人気ユーチューバーさんたちの思考力や、発想力、行動力は、

凡人ではない、素晴らしい才能に溢れているし、

自分の力を存分に発揮なさっている

 

そういった大発明の恩恵を、「楽しむ」という形で本当に受けとめることができるのは、

早ければ早いほどいい、というわけではなくて、むしろ、

はじめしゃちょーさんの言うとおり、

実体験がたくさんあって、本物の交流がたくさんあって、外でめっちゃ遊んだ上での、

その世界

満を持して!ということなのではないでしょうか

 

ほんのいっとき、「静かにしていてくれるなら…」と与え始めてしまったスマホやゲーム機、

それでも、開発者さんや出演者・制作者さんの才能は子どもの好奇心などすぐにさらっていきます

本当は、

野山に連れて行って1日放置しても同じ反応をするのですが、

エアコンの効いた快適な家の中で、同じ様な「楽しみ」を味わうことができたら、

わざわざ汚れたり、虫に刺されたり、遠くまで出かけたりせずに楽しめる方を

大人でも選ぶかもしれません

「野山なんかいやだ、何にもないし、汚いし、めんどくさい」って

そんな子どもも珍しくありません

(子どもの本音でしょうか?もしかしたら、親御さんの気持ちの代弁かな?)

そして、ずるずると、はじめしゃちょーさんの言っているような、

「危険性を理解した上で使う」という原則も、揺らいだままになっています

 

とにかく、ユーチューバーや、ゲーム開発者になりたい小学生に言いたいのは、

ユーチューブばかり見ていてもおもろいユーチューバーにはなれない、ということ

ゲームばかりしていてもゲーム開発者にはなれない、ということ

ユーチューブで見た面白いことを動画に撮ってユーチューブにアップしても、

それはただの真似っこで、ユーチューバーではありません

 

そして、はてさて、今から10年後、6年生が就職する頃に、

ユーチューバーという職業は、どっちに転がっているでしょう

きっと、

はじめしゃちょーさんのような方は、

その時に、また、自分の才能を生かすことができる仕事の仕方を、

いち早く見つけ出しているのだと思います

それが、本物の思考力を持った人の、人生を楽しむ生き方なんだろうな、と

《2018年 6月7日投稿》

230.大人に、従わなければならない子どもたち

連日、ワイドショーを賑わしている「指導者」と「選手」の問題は、

私たち、子どもに関わる全ての大人が真剣に考えなくてはならない課題を孕んでいます

 

それは、指導者、コーチ、教師に限らず、

親たちも同様です

 

初めて、この問題を知った時、

加害選手のした事実は重く受けとめなくてはならないひどい行為ではあっても、

それがもしかしたら指導者側からの指示に従っただけ、ということに、

それほど驚かなかった、というか、

基本的に、逆らえるわけないじゃない。と冷静に感じたのでした

 

それは、自分がかつて身を置いていた「体育会系」のいくつかの組織を思い出しても、

「こうしろ」と言われて、「なぜですか?」「本当にしなくちゃダメですか?」なんて反論は

ありえなかった経験もあるけれど、

(…まあそれが、反則行為や犯罪行為である場合、やはり、受け入れてはいけないのだけれど…)

大学生じゃなくても、スポーツじゃなくても、

私たちの身近にいる子どもたちの多くは、そんな風な、「逆らえない命令」に、

日常的に従っているという現実があるからです

 

たとえば「ランドセル重い問題」

昨年度、どんぐり学舎でも、塾生さんや、塾生さんの周囲の子たちに協力をお願いして、

1週間のうち数日間、ランドセルの重さを量ってもらい、体重との比率を計算して集計しました

(その結果はまた別の時に公表するとして…結論から言うと、「重すぎる」)

その後、国内外から情報が集まったり、報道されたりして、

つい数日前、朝日新聞で特集がありました

記事を隅から隅まで読みましたが、一番書かれていなければならない重要なことが

全く書かれておらず、驚きました

 

某海外の国では教材は学校のものだから、私物として持ち帰らない、

だから、リュックの中身はランチボックスだけ、とか、

また別の海外の国では、重すぎるので車輪つきのキャリーケースが必須だとか、

日本でも、重さ対策のために、教材を自宅用に別途揃えて、

持ち帰らなくても済むようにしているとか、

ランドセルに入れるA4ファイルの端を1センチ切るだけで、標準ランドセルに収まるから、

少しでも重くなってしまう大きめのランドセルを買う必要はない、とか…

 

いやいや、そんなことじゃなくて、当初から私が問題だと思っているのは、

「教材を持ち帰るかどうかの選択肢がない」ということなのです

昔風に言うと、「置き勉」は禁止されている学校がほとんどである、ということです

つまり、

子どもたちは、自分で「必要か不要か」を判断してランドセルの中身を厳選することはできず、

全ての教材を持ち帰り、全ての教材を持っていかなくてはならないのです

たとえば、「明日も算数があるけれど、宿題でこの本は使わないから今日は置いていける」などと、

自分で決めることはできません

 

もちろん、全国、全ての学校ではなく、実際に全ての学校に調査したわけではないので、

割合もわかりませんが、

私の周囲、つまり、わが子や、塾生の周囲では、こんな現状です

 

ついでに言うと、「忘れ物」に関しても、かなり厳しく指導されています

全部持ち帰り、翌日の準備も全部持っていくわけですが、

時間割表は昔のように科目だけ書いてある決まったものではなく、

毎週配布されるプリントで、全ての持ち物などまで明記されていますが、

これもまた、「何が必要か」子どもたちは判断することもなく、

書いてある物を忘れないように持っていくのです

忘れたら、厳しく注意を受けるのと、「忘れたから友達に借りに行こう」

なんていうことは許されないので、

泣きながら荷物を何度も確認する子がいる、という話も方々から聞いています

 

たとえば「中学校の定期テスト問題」

定期テストが近付くと、「テスト範囲表」というプリントが配布されます

科目ごとに、テスト範囲と、提出すべき問題集の範囲などが明記されていますが、

それだけではありません

目標点数、テスト前2週間ほどの勉強スケジュールと記録、

さらには「勉強の仕方」「ワークの使い方」などが書かれていて、

中には、その通りしなければならない、と

決められている学校もあります

勉強の方法さえ子どもたちが自分で考え、決める権利はありません

ほとんどの中学生は、日々、部活動に時間を費やし、宿題をこなし、

テスト前には言われたところまでの問題集を埋めて提出、

自分で自分の弱点を知り、対策を立てる暇などありません

 

たとえば…まだまだ…

・給食は「三角食べ」を強要され、ご飯が口に残っている状態で牛乳を飲まされる

・漢字はもう覚えているのに何度も漢字練習の宿題が出される

・授業でよくわからなかったのに、宿題で計算ドリルが出され、やっていけないとペナルティ

・給食、掃除の時間は無言がルール

・特別教室、体育館や校庭への移動は無言で列を乱さず

・算数の筆算には定規を使わないと減点

・算数の繰り上がり、くり下がりなど、教師によって書き方に特徴があり、

 それに従わないと叱られる

 

小学生でこのような環境が「あたりまえ」だと思って中学校に入り…

 

・先生の授業は絶対。たとえ間違っていても、ほとんどの生徒は指摘できない

  (目にあまるので、一度指摘したことがあります。

  でも、別のベテランの自信満々教師のとある授業に関しては、

  指摘しきれないほどのミスが多発。

  質問するように言っても、生徒たちは「できるわけない」と口々に。)

 

・外部講師を招いての講演などに行くと、保護者の後に生徒が入場してくるのですが、

 入場直後から一切私語はなし

 始まるまで10分以上、誰も何も喋らず、身動きもほとんどしません

 「気持ち悪いなあ…」と思っていると、講演が始まり、

「こんなのおかしい」と冒頭から講師の方が指摘

 「中学生ならもっと自由に過ごして、会が始まったら耳を傾ける、というくらいでいい。

 聞きたいな、っていう話なら自然と静かになる。先生達、どう思いますか?」

 わたしも一緒になって、生徒の周囲や後方を見渡すと、なんと、先生はほとんどいませんでした

 つまり、保護者の希望者と生徒全員に聞かせる外部講師の講演会を、

 先生達は聞かないのです

 

・とにかく怒鳴る、威圧する、私が目撃した場面だけでも、生徒に有無を言わせず、

 とにかく大の大人が大声で、怒鳴り散らします 

 中には、生徒たちの出身小学校の名前を出して馬鹿にして、罵倒する教師もいます

 少しは反抗的な態度を表す子もいますが、ほとんどの生徒は殻に閉じこもります

 そして、「いい子」を演じます

 それしか、穏やかな中学校生活を送る術はないから

 子どもたちの、生存本能でしょう

 

 

小学校から始まっている「大人の命令は絶対だ」という生活の中で、

子どもたちは、学んでいきます

まず、自分で工夫して考えることはしなくなります

長女が中学校に入学した時、

担任の先生に、

「指示に従うのではなく、自分で勉強することを見つけて、

自主的に勉強することが望ましい」と言われ、

「でも、先生、小学校では自主的に勉強するのではなく、

宿題を出されて、それをやらなければならないんですよ」と言いました

※長女は宿題免除でしたが、一般論として

中学の先生の多くは、漢字練習や計算ドリルをたくさんこなせば勉強ができるようになる、

なんて思っていませんが、小学校の宿題の実態はよく知らない方が多いようです

「あれだけがんじがらめだった子たちが、中学生になって急に自主的に勉強し出すでしょうか」と

その話を続けました

「だから、わからなくなって、1年生の最初から塾を探すのでは。

部活と、塾と、ゲームで、結局、一番大事な学校の授業中に眠くて、疲れていて、

集中できないという事態になっているのでは。」と

 

その後、中学校もかなり「がんじがらめ」であることを知ることになるのですが…

 

卒業式、

水を打ったように静まりかえった体育館は、「あの」講演会の時と同じでした

彼らの卒業式なのに、先生の「礼!!」という怖い声が響き渡り、

その声に反射するかのようなスピーディな反応で、

生徒たちは同じ角度で頭を深々と下げていました

 

ひととおりの儀式が終わり、親たちだけのPTA退会式?のようなものにうつった時、

「生徒たちが立派でした」と先生は言っていたけれど、

私の頭の中では尾崎豊の『卒業』が鳴り響き、ガラスを割る音が聞こえてくるようでした

誰も、ガラスを割る子なんていない、

そんな気持ちさえとっくにおさえつけられている子どもたちです

でも、消えているわけではない、みんな、心の奥に持っているのです

 

だから、スマホを手放さないんじゃないかな

だから、SNSでつながりたいんじゃないかな

 

20歳になっても、命令に従って罪を犯した彼のいた世界は、

この延長なんだろうな、と思ったのでした

 

子どもは、悪くない

大人が、この世界を作っているのですから

 

そんなつもりはない?先生は、親は、いつも子どものためを思って…

そこに乖離はないですか?

大人の勝手な都合はないですか?

 

話を聞いてあげるのは、大人のほう

誤解があるなら解いてあげるのは、大人のほうです

 

だって、私たちは「おとな」なんだから

《2018年 5月31日投稿》

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